

食語の心 第102回
作家 柏井壽
食べるより見せる
コロナ禍によって、外食に対する考えが変わるのでは、と淡い期待を抱いたが、残念ながら元の木阿弥のようだ。というより、以前よりもいびつになった気さえする。
移動の自粛などどこ吹く風とばかり、あいも変わらず遠方の名店行脚を続けるひとも少なくなければ、今ならいつもより行列も短いとばかりに、人気店に並ぶひとも多い。そこまでして食べたいのかと思えば、やはりお目当ては食べることより見せることにあるようだ。
映えという言葉がふつうに使われるようになったのは、そう古いことではないのだが、いつの間にかそれは褒め言葉になり、寺社の庭園までもが、映える庭、などと言われるようになってしまった。
以前にもこのコラムでローストビーフ丼を例に挙げ、食べることより写真に撮ることを優先する風潮を嘆いたが、その傾向はコロナ禍でも衰えるどころか、ますます大きくなっている。山のように積まれたローストビーフを、見せつけるようにアップで写真を撮ったら、少し箸をつけるだけで、ほとんど食べ残して店を出ていく。長い列に並んだのは、食べるためではなく撮るためだったという話は以前にも書いたことがある。
そしてその写真は思い出などのためではなく、SNSに投稿して自慢をしたいがためなのだと聞いて、やるせない気持ちになってしまう。なぜこんな風潮がはびこるかと言えば、再三再四にわたって書いているが、プロアマ織り交ぜてグルメと呼ばれるひとたちが、映え狙いの写真を披歴するからである。
移動の自粛などどこ吹く風とばかり、あいも変わらず遠方の名店行脚を続けるひとも少なくなければ、今ならいつもより行列も短いとばかりに、人気店に並ぶひとも多い。そこまでして食べたいのかと思えば、やはりお目当ては食べることより見せることにあるようだ。
映えという言葉がふつうに使われるようになったのは、そう古いことではないのだが、いつの間にかそれは褒め言葉になり、寺社の庭園までもが、映える庭、などと言われるようになってしまった。
以前にもこのコラムでローストビーフ丼を例に挙げ、食べることより写真に撮ることを優先する風潮を嘆いたが、その傾向はコロナ禍でも衰えるどころか、ますます大きくなっている。山のように積まれたローストビーフを、見せつけるようにアップで写真を撮ったら、少し箸をつけるだけで、ほとんど食べ残して店を出ていく。長い列に並んだのは、食べるためではなく撮るためだったという話は以前にも書いたことがある。
そしてその写真は思い出などのためではなく、SNSに投稿して自慢をしたいがためなのだと聞いて、やるせない気持ちになってしまう。なぜこんな風潮がはびこるかと言えば、再三再四にわたって書いているが、プロアマ織り交ぜてグルメと呼ばれるひとたちが、映え狙いの写真を披歴するからである。