

食語の心 第91回
作家 柏井壽
特別から普通の食へ
いっこうに収束の気配を見せない新型コロナウイルス禍だが、自粛や規制も続き、飲食店の苦境はとどまるところを知らない。廃業に追い込まれる店も後を絶たず、存続させているところも業態を転換したり、規模を縮小して移転したりと、青息吐息ながら、なんとかしのいでいるといったふうだ。
そんな状況のなかで改めて見直されているのが、普通の食だ。コロナ禍の直前まで、特別な食が日本中にあふれていた。まるで特別でなければ、価値がないような空気に包まれていた。
たとえば食パン一つとっても、ありきたりのパンでは満足できないのか、いわゆる高級食パンの店があちこちに出現し、どこも長い行列ができるほど人気を呼んだ。それが普通の食パンと比べて、どれほどおいしいか、は横に置くとして、特別な店で買うことに価値を見いだしているのだろう。
ちょうどそれは、昭和の中ごろに起こったブランドブームと同じで、バッグそのものというより、ブランドのロゴマークを珍重したように、店の名前が入った紙袋が大事だったりするのである。
そういえば、と思いだすのは京都で一世を風靡したデニッシュパンだ。祇園にお店があったこともあり、酔客の土産として人気に火が付き、あっという間に京都中に広まった。まさに今の高級食パンと同じで、「あれ食べた?」というのが合言葉になった。
当時のデニッシュパンは、今の高級食パンと違って、誰が食べても明らかに味も食感も異なり、これまで食べたことのない食パンだった。
その違いはあるものの、普通の食パンに比べてかなり高額であるという点では同じ。そうは言っても、ブランドバッグに比べると、買おうと思えば誰でも買える金額であるのがミソ。食パンとしては高額であっても、手土産と考えれば手軽に買えるのだ。
そんな状況のなかで改めて見直されているのが、普通の食だ。コロナ禍の直前まで、特別な食が日本中にあふれていた。まるで特別でなければ、価値がないような空気に包まれていた。
たとえば食パン一つとっても、ありきたりのパンでは満足できないのか、いわゆる高級食パンの店があちこちに出現し、どこも長い行列ができるほど人気を呼んだ。それが普通の食パンと比べて、どれほどおいしいか、は横に置くとして、特別な店で買うことに価値を見いだしているのだろう。
ちょうどそれは、昭和の中ごろに起こったブランドブームと同じで、バッグそのものというより、ブランドのロゴマークを珍重したように、店の名前が入った紙袋が大事だったりするのである。
そういえば、と思いだすのは京都で一世を風靡したデニッシュパンだ。祇園にお店があったこともあり、酔客の土産として人気に火が付き、あっという間に京都中に広まった。まさに今の高級食パンと同じで、「あれ食べた?」というのが合言葉になった。
当時のデニッシュパンは、今の高級食パンと違って、誰が食べても明らかに味も食感も異なり、これまで食べたことのない食パンだった。
その違いはあるものの、普通の食パンに比べてかなり高額であるという点では同じ。そうは言っても、ブランドバッグに比べると、買おうと思えば誰でも買える金額であるのがミソ。食パンとしては高額であっても、手土産と考えれば手軽に買えるのだ。