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食語の心 第83 回
作家 柏井壽
器数寄
料理の内容に比べて、器遣いに対する世間一般の関心があまりにも低すぎるのではないか、と常々憂いている。
 たとえば食の口コミサイトでのレビュアーの書き込みを読めば、それは一目瞭然だ。
 その店の料理人の姓名はもちろんのこと、経歴から得意分野まで詳述し、使用している食材の出自にも言及し、なおかつ調理法にいたるまで、微に入り細をうがつ記述が少なくない。
 ではあっても、どんな器をどういうふうに使っているかや、器遣いに対する評価はないに等しい。
 街場の食堂や洋食店ならそれでいいかもしれないが、割烹や料亭などの和食店では、器の持つ意味は極めて大きいはずだ。
 なぜそうなるかと言えば、器を語るにはそれなりの知見が必要になるのだが、今どきのグルメと呼ばれる人たちは、そこにはまったく興味を示さないから、理解できないのである。食材のことは調べたり学んだりしても、器は無視。
 となれば料理人側も、食材と器のどちらに注力するか。言わずもがなだろう。
 とは言え、決して安くはない料金を取るのだから、100円ショップの器を使うわけにはいかない。
 かと言って、修業時代は食材や料理法ばかりに目が行き、器遣いにまで興味は向かなかった。
 さあ独立開業となって、慌てて器屋へ出向き、ひと通りの器をそろえるに当たっては、器屋の主人に相談し、もしくは言われるがままに買い求めることになる。
 一方で、若手の料理人の中にも、修業時代から器に興味を持ち、コツコツと買い集めていた人も決して少なくはない。
 前者と後者の違いは、にわかグルメの人たちでは見分けがつかない。だが、むかしの食通と呼ばれた人たちは、容易にその差を見極めた。
後者にあって前者にないもの。それは数寄という概念である。
 好きという言葉に、数寄という字を当てはめ、それはおおむね茶の湯を指すことになっている。もしくは華道や芸道など、風雅を求めることを数寄と呼ぶ。
 これは器にも当てはまる。修業を通じて、料理と器は一体であると体感すれば、おのずと器に興味を持ち、やがてそれは器数寄へとなる。
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