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現実の世界をきちんと見ることなく、仮想の世界に入りこんで喜ぶのが今の風潮なのである。
 例えば京都の寺がこぞってライトアップして、多くの人気を集めているのもその一つ。
 現実は闇夜に薄っすらと見える桜なのだが、そこに煌々(こうこう)と明るいライトを当て、仮想の姿を見せる。
 それが高じると今度は、プロジェクションマッピングという重病に陥ってしまう。建物に映像を映して別ものに仕立て上げる。それを人々は、美しいと思い込み、歓声を上げ、ムービーにして投稿する。
 そして驚くべき店が東京にあることを知ったのは、つい最近のことだ。
 ムーディーを通り越して、闇鍋でも出てきそうに暗い店内。そこで供されるのは創作フレンチ。ここまでなら、いかにも東京にありそうな話だが、この店ではテーブルにプロジェクションマッピングを施し、料理と一体化させるのだそうだ。
 例えば森の中の映像をテーブルに映し出し、雑木林をテーマにした料理を出す。映像も変化し、それに合わせた料理が次々出てくるという仕掛け。予約が取れない人気店なのだと聞く。
 そこにあるものを、そのまま見て美しい、おいしいと思えなくなった感性がつらい。
 当然のことのようにして、料理の世界も、ありのままを認めなくなっているようでいて、実はその逆もまた流行しているから、どうにも不可解だ。
 以前にも書いた塩信仰がそれだ。
 蕎麦(そば)につゆを付けず、塩だけで食べる。そうすると蕎麦そのものが持つ本来の味がよく分かる。それをさらに進化させれば水蕎麦になる。つゆの代わりに水を付けて食べる。こうなるともう禅問答だ。ならばいっそ、蕎麦の実を生でかじればいいではないか。天邪鬼(あまのじゃく)な僕などは、ついそう言いたくなる。
 こんな修行僧のような食をもてはやす一方で、派手な幼児化が進む。だから食がいびつになってしまった。極端なのである。
 食はこうあらねば、だとか、料理はこう作るべきだとか、大上段にかまえるつもりは毛頭ない。
 天の恵みをむやみにもてあそばず、人智(じんち)を駆使して長年かかって作り上げてきた料理を尊ぶ。食べるという行為では、それを要諦(ようてい)としたいだけなのである。
かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。京都市北区で歯科医院を開業する傍ら、京都関連の本や旅行エッセイなどを数多く執筆。2008年に柏木圭一郎の名で作家デビュー。京都を舞台にしたミステリー『名探偵・星井裕の事件簿』シリーズ(双葉文庫)はテレビドラマにもなり好評刊行中。『京都紫野 菓匠の殺人』(小学館文庫)、『おひとり京都の愉しみ』(光文社新書)など著書多数。
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