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食語の心 第37回
作家 柏井壽
美味しいものを、しっかり味わうには健康でなくてはならない。
 胃腸の調子がよくないときはもちろんのこと、風邪をひいていても、花粉症だったりしても、美味しく食事ができない。
 消化器官である胃や腸の不具合が、食欲や味わいを大きく阻害するのは、ある意味で当然のことなのだが、風邪ひきや花粉症などが、美味を阻むのは、口だけでなく、鼻からも美味を感じ取っているからである。
 たとえば日本料理の華ともいえる椀わん物もの。
 お椀の蓋(ふた)を取って、まず感じるのは、馥ふく郁いくたる薫りである。けっして濃くはないが、複雑な出汁(だし)の香りを感じ取った瞬間から〈美味しい〉が始まる。
 そんな精緻(せいち)な香りだけではない。昔から〈匂いで食わせる〉と言われる鰻うなぎもそうだし、焼き肉、カレー、ラーメンなどなど、その匂いに引き寄せられて店に入るという料理はいくら
でもある。
 先に書いた鰻などは、江戸落語でも語られるように、鰻屋の店先で、匂いだけを嗅ぎ、白いご飯を食べるなどということが可能なくらいだ。実際にできるかどうかは分からないが、なんとなくできそうに思えるところが、鰻を焼く匂いの強大な力である。
 店先で焼かれる鰻の匂いに引き寄せられて鰻屋に入った。幸い客の数は少ない。いくらか待ち時間も少ないだろう。注文するのは、当然のごとく鰻丼だ。
 並、上等、特別。どれにするか迷ったあげく、中ほどの上等。
 お茶を飲みながら、じっと焼きあがるのを待つ。この待ち時間が長いほど美味しく感じるのが鰻屋の常。
 何度も差し替えられたお茶だけをお供にして、辛抱強く待つ。
 そしていよいよ鰻丼登場。待ちかねた瞬間に胸が躍らぬはずがない。
 大きな期待を込めて蓋を取る。これだ、この香りだ。箸を付ける前に、まずは香りを胸いっぱいに吸い込む。さあ箸を取っていざ、という、まさにそのとき、グループ客が入ってきた。男性が四人。席に着くやいなや、いっせいに煙草に火を点つ けた。天国から地獄へ落とされた。
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