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食語の心 第34回
作家 柏井壽
食堂は、普通に読めば〈しょくどう〉だが、寺方で言う食堂は〈じきどう〉と読み、僧侶が日々の生活の中で、修行を見出だす場でもある。
 つまり、お寺の食堂は、ただ食事をする場所ではなく、修行の場でもあり、更にはご本尊を安置する場所でもある。
 手狭だからではないだろう。寺の境内にはほかにも修行の場がいくらもある。なのになぜ、食堂で修行するのか。―食事はいのちの場― という考え方を仏教が持っている
からである。
 人は誰もが、魚、肉、他の生命を奪い、それを食べることによって生きている。
 たとえそれが精進料理であっても、草木の生命を奪っていることに変わりはなく、食べることでしか生き永らえない人間としての宿命なのだ。
 なればこそ、食事はいのちの場となり、万物に感謝して食べ、生命の根源を見出そうとする。
 言うまでもなく、今の〈しょくどう〉は〈じきどう〉が変化したものである。
 明治以降、教育制度が充実し、日本中に高等教育機関が作られるようになった。
 志の高い若人たちは、故郷を離れ、日本各地の高校、大学で学ぶこととなる。そのために寄宿舎や学寮が建てられ、学生たちは、寝食を共にして学業に励む。
 そしてそこで食事する場所を、寺方の〈じきどう〉に倣って、〈しょくどう〉と名付けたのである。すなわち本来、食堂という言葉は〈じきどう〉と読み、寺から学校へと場が移った際に読みが変わったというわけである。
 そして時代は移り、一般の飲食店も、この食堂という言葉を使い始め、大衆食堂、駅前食堂と変遷してきた。
 寺から学校、一般へと移り変わる中で〈じき〉が〈しょく〉になり、本来の精神をどこかへ置いてきてしまったのが、今の食堂と言えるだろう。
 学生食堂で、あるいは大衆食堂で、食の持つ意味など考える人は、ひとりとしていないだろうと思う。それは何も食堂に限ったことではなく、予約の取れない割烹や、星付きの料亭、フレンチでも同じこと。どちらかといえば、後者でこそ、その傾向は顕著なのだろう。
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