
宝隆院庭園から見た仁風閣。久松山の緑と空に縁取られ、当時のままのゆったりとした風景を作っている。池の水面に白亜の外観が映えて美しい。
堀の外側から眺めると、城の石垣の合間に、白亜の瀟洒な洋館がぽっかりと浮き上がり、異彩を放っている。鳥取観光の名所であり、重要文化財である仁風閣(じんぷうかく)だ。鳥取城跡に立つこの洋館は、1907(明治40)年、当時の嘉仁(よしひと)皇太子殿下(後の大正天皇)の鳥取行啓に際し、皇太子の宿舎として建てられた別荘であるという。施主は徳川慶喜の五男で、池田家の養子となった池田仲なか博ひろ侯爵。設計は、赤坂離宮などを手がけて「宮廷建築家」と称された、当代一流の建築家、片山東熊(かたやまとうくま)博士だ。ちなみに、仁風閣の名づけ親は皇太子に随行した東郷平八郎だといわれ、今も館内に東郷による直筆の額が残る。そのいわれに有名人が名を連ねるこの建築物は、皇太子の行啓に間に合わせるため、着工からわずか8カ月で完成された。建築費用は4万4000円。当時の鳥取市役所の年間予算が5万円だったというから、力の入れようがうかがえる。
しかし、仁風閣が皇太子の御座所となったのはわずか数日間であり、その後、池田家の別荘として使われた期間も短い。大正期には市の公会堂や県の迎賓館として使用され、昭和の24年間は県立科学博物館として使われていた。その間、建物の老朽化を理由に廃棄されそうになったこともあったが、そのたびに市民による熱心な保護運動が行われている。そして博物館の新築に伴い、県から譲渡された鳥取市が大規模な修理復元を行い、現在に至る。
保存運動に尽力した一人が、柳宗悦(やなぎむねよし)とともに民藝運動にいそしんだ鳥取出身の吉田璋也(しょうや)である。吉田は仁風閣が全国でも有数の建築的価値を持つとし、次のように述べている。
しかし、仁風閣が皇太子の御座所となったのはわずか数日間であり、その後、池田家の別荘として使われた期間も短い。大正期には市の公会堂や県の迎賓館として使用され、昭和の24年間は県立科学博物館として使われていた。その間、建物の老朽化を理由に廃棄されそうになったこともあったが、そのたびに市民による熱心な保護運動が行われている。そして博物館の新築に伴い、県から譲渡された鳥取市が大規模な修理復元を行い、現在に至る。
保存運動に尽力した一人が、柳宗悦(やなぎむねよし)とともに民藝運動にいそしんだ鳥取出身の吉田璋也(しょうや)である。吉田は仁風閣が全国でも有数の建築的価値を持つとし、次のように述べている。