救荒の名代官たち
では、ペルーで生まれ、ヨーロッパ大陸へと広がったジャガイモはいつ、どのようなルートで日本に伝来したのか。1600年前後にオランダ人が長崎に持ち込んだのが最初とされている。インドネシア・ジャガトラ港経由であったことから「ジャガタライモ」と呼ばれ、それがジャガイモになった、という説もある。ただ、食用としての普及はなかなか進まなかった。
「当初は長崎の居留外国人や、寄港する外国船舶等を中心とする輸出用だったようです。その中で、飛騨の幸田善太夫(ぜんだゆう)とか甲斐(かい)の中井清太夫(せいだゆう)のような『ジャガイモは飢饉(ききん)の時に有用だから栽培しなさい』と指導する開明派の代官がいた所に、ゆっくりと広がっていったのでしょう。大雑把に言うと、江戸時代には列島の半分、現在の長野県辺りまで広がったと思います。北海道は別ルートでね、おそらくロシアから入ってきたのでしょう。初代根室県令の湯地定基(ゆちさだもと)が自ら種イモを配ったり、指導したりしてジャガイモ栽培を普及させました。そして開拓とともにジャガイモは北海道全体に広がります」
伊藤氏によると、日本で特徴的なのは、「貧者のパン」たる救荒作物にはジャガイモとサツマイモの2系統があることだという。両者が生育に適した気候・風土を求めて見事に“救荒作物地図"を描きながら、全土に広がっていったと言えよう。
ジャガイモの無念
こうして歴史を駆け足でたどると、そんなに遠くない昔、ジャガイモは人々を飢餓から救う“お助け芋"としての真価を発揮していたという現実に突き当たる。ただ「日本のジャガイモは無念で仕方なかったと思う」と伊藤氏は言う。どういうことか。
「昭和の初めに何度か、東北地方は大変な飢饉に見舞われました。本来なら、そういう時こそジャガイモは『俺の出番だ!』と名乗り出たかったでしょう。でも、“お助け芋"になれなかった。小作農たちにジャガイモをふんだんに植える土地も時間もなかったことが大きな理由だと思います。高い小作料を払うためには、まず米を栽培しなければなりませんからね。もしどこか一つの地域で本格的にジャガイモを栽培して飢饉を救っていたら、日本のジャガイモ史に輝かしい一ページを残せたのにと思うと、残念でなりません。日本のジャガイモにはだから、自分は“お助け芋"だと胸を張れない無念があると思うのです」
ジャガイモの無念は決して昔話ではない。世界の食糧危機をリアルにとらえると、今後もジャガイモに救荒作物としての機能を発揮してもらう局面が絶対に来ると感じる。
「当初は長崎の居留外国人や、寄港する外国船舶等を中心とする輸出用だったようです。その中で、飛騨の幸田善太夫(ぜんだゆう)とか甲斐(かい)の中井清太夫(せいだゆう)のような『ジャガイモは飢饉(ききん)の時に有用だから栽培しなさい』と指導する開明派の代官がいた所に、ゆっくりと広がっていったのでしょう。大雑把に言うと、江戸時代には列島の半分、現在の長野県辺りまで広がったと思います。北海道は別ルートでね、おそらくロシアから入ってきたのでしょう。初代根室県令の湯地定基(ゆちさだもと)が自ら種イモを配ったり、指導したりしてジャガイモ栽培を普及させました。そして開拓とともにジャガイモは北海道全体に広がります」
伊藤氏によると、日本で特徴的なのは、「貧者のパン」たる救荒作物にはジャガイモとサツマイモの2系統があることだという。両者が生育に適した気候・風土を求めて見事に“救荒作物地図"を描きながら、全土に広がっていったと言えよう。
ジャガイモの無念
こうして歴史を駆け足でたどると、そんなに遠くない昔、ジャガイモは人々を飢餓から救う“お助け芋"としての真価を発揮していたという現実に突き当たる。ただ「日本のジャガイモは無念で仕方なかったと思う」と伊藤氏は言う。どういうことか。
「昭和の初めに何度か、東北地方は大変な飢饉に見舞われました。本来なら、そういう時こそジャガイモは『俺の出番だ!』と名乗り出たかったでしょう。でも、“お助け芋"になれなかった。小作農たちにジャガイモをふんだんに植える土地も時間もなかったことが大きな理由だと思います。高い小作料を払うためには、まず米を栽培しなければなりませんからね。もしどこか一つの地域で本格的にジャガイモを栽培して飢饉を救っていたら、日本のジャガイモ史に輝かしい一ページを残せたのにと思うと、残念でなりません。日本のジャガイモにはだから、自分は“お助け芋"だと胸を張れない無念があると思うのです」
ジャガイモの無念は決して昔話ではない。世界の食糧危機をリアルにとらえると、今後もジャガイモに救荒作物としての機能を発揮してもらう局面が絶対に来ると感じる。

「男爵薯・メークインよりフランスものはずっとおいしい。」
青木隆雄(あおき・たかお)
ジャパンポテト代表取締役社長
1960年東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒業。1984年キリンビールに入社し、2006年キリンビールの出資で設立したジャパンポテトへ出向。2009年にキリンビールへ帰任する。2015年キリンビールを退職し、5月から現職。
青木隆雄(あおき・たかお)
ジャパンポテト代表取締役社長
1960年東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒業。1984年キリンビールに入社し、2006年キリンビールの出資で設立したジャパンポテトへ出向。2009年にキリンビールへ帰任する。2015年キリンビールを退職し、5月から現職。
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