
「見てくれは悪いけど、すごい底力を持った食べ物だね。」
伊藤章治(いとう・しょうじ)
1940年旧満州生まれ。名古屋大学法学部卒。中日新聞社(東京新聞)社会部、バンコク支局などを経て1998年、編集委員兼論説委員に。2001~2010年、桜美林大学教授を務め、現在は同大学名誉教授。著書に『ジャガイモの世界史』(中公新書)『サツマイモと日本人』(PHP新書)などがある。
伊藤章治(いとう・しょうじ)
1940年旧満州生まれ。名古屋大学法学部卒。中日新聞社(東京新聞)社会部、バンコク支局などを経て1998年、編集委員兼論説委員に。2001~2010年、桜美林大学教授を務め、現在は同大学名誉教授。著書に『ジャガイモの世界史』(中公新書)『サツマイモと日本人』(PHP新書)などがある。
洋食との出合い
ジャガイモが日本に急速に普及したのは、明治に入ってからのこと。『ジャガイモの世界史』(中公新書)の著書がある伊藤章治氏は、「明治維新政府が列強に追いつこうと富国強兵・殖産興業に勉励する中で、その中心的役割を担った軍隊と工場がジャガイモを広げていく上での二大推進力になった」と指摘する。ジャガイモは、長期保存がきき、栄養価が高いから、脚気などの病気の予防を含めて軍隊食にはもってこい。また安価であることから、女子工員の食事にも多用された。
「例えば大阪紡績の女子工員の献立表を見ると、馬鈴薯(ばれいしょ)汁、つまりわずかにジャガイモの入った味噌汁がよく出てきます。日本の産業革命においてジャガイモは『貧者のパン』の役割を担ったとわかりますよね。女子工員にしろ、軍人にしろ、ジャガイモを食べた人たちが国元に戻り『あれ、食べたいな』となって、広がっていったんじゃないでしょうか。ただ当時のジャガイモは、あくまでも代用食。庶民の間でこじゃれた、うまいジャガイモ料理が人気になるのはずっと先、戦後になって大量のサラリーマンが生まれて以降のことでしょうね」
この時期のもう一方の流れとして注目すべきは、西洋料理の流入によりジャガイモに変革がもたらされたことだ。例えば1872(明治5)年に刊行された『西洋料理指南』という書物にはすでに、今のひき肉入りジャガイモコロッケに近いものが紹介されている。
海軍では「東郷平八郎にビーフシチューをつくれと命じられた料理長がデミグラスソースのかわりに醤油と砂糖を使ってつくりあげたことから生まれた」と伝わる肉じゃががメニューに載せられた。今も「海軍カレー」として親しまれるカレーライスもしかり。
つまり、洋食と結びつく形でさまざまなジャガイモ料理が生まれ、最初は洋食店が供する高級料理として、やがて家庭料理として浸透していったのだ。
コロッケ、カレーライス、クリームシチュー、肉じゃが、ポテトサラダ、粉吹きイモ、フレンチフライ……戦争を知らない世代にとっては、今やジャガイモ料理は家庭料理であり、外食においては日本食と化した洋食。
ジャガイモは代用食からしだいにうまさが際立つ庶民的ごちそうに欠かせない食材へとグレードアップしたのである。
「例えば大阪紡績の女子工員の献立表を見ると、馬鈴薯(ばれいしょ)汁、つまりわずかにジャガイモの入った味噌汁がよく出てきます。日本の産業革命においてジャガイモは『貧者のパン』の役割を担ったとわかりますよね。女子工員にしろ、軍人にしろ、ジャガイモを食べた人たちが国元に戻り『あれ、食べたいな』となって、広がっていったんじゃないでしょうか。ただ当時のジャガイモは、あくまでも代用食。庶民の間でこじゃれた、うまいジャガイモ料理が人気になるのはずっと先、戦後になって大量のサラリーマンが生まれて以降のことでしょうね」
この時期のもう一方の流れとして注目すべきは、西洋料理の流入によりジャガイモに変革がもたらされたことだ。例えば1872(明治5)年に刊行された『西洋料理指南』という書物にはすでに、今のひき肉入りジャガイモコロッケに近いものが紹介されている。
海軍では「東郷平八郎にビーフシチューをつくれと命じられた料理長がデミグラスソースのかわりに醤油と砂糖を使ってつくりあげたことから生まれた」と伝わる肉じゃががメニューに載せられた。今も「海軍カレー」として親しまれるカレーライスもしかり。
つまり、洋食と結びつく形でさまざまなジャガイモ料理が生まれ、最初は洋食店が供する高級料理として、やがて家庭料理として浸透していったのだ。
コロッケ、カレーライス、クリームシチュー、肉じゃが、ポテトサラダ、粉吹きイモ、フレンチフライ……戦争を知らない世代にとっては、今やジャガイモ料理は家庭料理であり、外食においては日本食と化した洋食。
ジャガイモは代用食からしだいにうまさが際立つ庶民的ごちそうに欠かせない食材へとグレードアップしたのである。
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