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店においては、主人はもてなす側で、客はそれを受ける方。同じ土俵に上ってはいけない。それでこその割烹なのだ。
 いつの頃からか、小さな店を貸し切りにして、仲間内での食事会を催すことが目に付く。僕はそういう機会を持ったことがないのだが、グルメブロガーやフェイスブック友達の投稿を見ると、頻繁に行われているようだ。
 他に客がいないという安心感がそうさせるのか、写真は撮り放題。カウンターを挟んで、客と主人が幾度もグラスを合わせている。
 客は席を移動し、無法地帯の様相を呈している。
 これが、そこいらの居酒屋なら何も問題はないのだが、半年先まで予約が埋まる人気割烹。基本的には取材お断り。客が料理写真を撮ることも禁じられている店なのだ。
 いったいこの差は何なのだろう。僕には不思議で仕方がない。誰に向けての店なのか。
 馴染客で席を埋めれば、店は売り上げが保証され、客は相客を気に掛けることなく、自由奔放に振る舞えるから、両者の利害が一致したのだろう。だがそれが果たして、店としての真っ当な姿だろうか。
 東京、大阪では至極普通のこととして行われてきた、貸し切りの食事会。京都とは無縁だったはずが、いつしか当たり前のように開かれているようだ。当然のことだが、当日は、一般客は閉め出され、食事はかなわない。
 淫食という言葉を使ったのは、ここに因がある。店を借り切った客も、それをよしとした店も、どちらも食を淫らなものにしている。
 本来、食とはもっと清らかであるべきもので、それはすべての客に等しく接するという、正しい有り様を明らかにしなければならない。
 店とは、客とは。その姿が問われている。
 さまざまにその境界が曖昧(あいまい)になる、日本の食。プロとアマの境目も日々危うくなり、自称料理研究家などというアヤシゲな人物が、料理のイロハも知らずして、料理教室を開いたりする。
 あるいはただ、食べ歩きを繰り返しているだけのブロガーが、カルチャーセンターで、講座という名の、ただの食事会を催す。
 かくして日本の食は淫らになる一方で、それを後押しするメディアの存在も相まって、ユネスコ無形文化遺産としての和食も、風前の灯火(ともしび)と化している。店も客も、そしてメディアも、真っ当な外食の姿を見直さなければ、決して世界に誇れるものとはならない。
かしわい・ひさし
1952年京都市生まれ。京都市北区で歯科医院を開業する傍ら、京都関連の本や旅行エッセイなどを数多く執筆。2008年に柏木圭一郎の名で作家デビュー。京都を舞台にしたミステリー『名探偵・星井裕の事件簿』シリーズ(双葉文庫)はテレビドラマにもなり好評刊行中。『京都紫野 菓匠の殺人』(小学館文庫)、『おひとり京都の愉しみ』(光文社新書)など著書多数。
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