
桜海老のかき揚げ丼

神田裕行 真味只是淡
第八回
第八回
Photo Masahiro Goda 文・神田裕行
春一番が吹いた。
土手ではつくしやたんぽぽが愛らしく首を振り春の訪れを喜んでいる。
四国の真ん中、徳島の西祖谷山(にしいややま)村に住んでいた義父母は、生前よく山菜の料理をごちそうしてくれた。せりのおひたし、独活(うど)の天ぷら、いたどりの油炒めやわらびの玉子とじ。食卓には山の清流の香りや山間の風のにおいがあふれていた。野菜が“野の菜"つまり天然の食材でなくなりつつある今は、“山の菜"つまり山菜こそが天然自然の味わいを残す貴重な食材だ。
中でも、筍(たけのこ)について最近ふと思うことがあった。筍の美味は穂先にあり、そのコーンのような甘い香りとほのかな甘さこそが魅力であると思っていたが、近頃はもっぱら根元にこそ旨みを感ずるのだ。ただしこの“旨み"はもともと私が筍に求めていた、あるいはそれこそが旨みであると思い込んでいた「甘いおいしさ」ではなく、もっとミネラルに由来するような、グルタミックな旨みなのだ。“グルタミックな旨み"とは、つまり糖質的、あるいはタンパク質的なアミノ酸で構成されるような快楽的旨みではなく、人間が根幹的に必要としているビタミンやミネラルを知覚した味わいであり、この旨みは筍の他にホワイトアスパラガスや、こごみやわらびやたらの芽などの全ての根元に共通するものである。
土手ではつくしやたんぽぽが愛らしく首を振り春の訪れを喜んでいる。
四国の真ん中、徳島の西祖谷山(にしいややま)村に住んでいた義父母は、生前よく山菜の料理をごちそうしてくれた。せりのおひたし、独活(うど)の天ぷら、いたどりの油炒めやわらびの玉子とじ。食卓には山の清流の香りや山間の風のにおいがあふれていた。野菜が“野の菜"つまり天然の食材でなくなりつつある今は、“山の菜"つまり山菜こそが天然自然の味わいを残す貴重な食材だ。
中でも、筍(たけのこ)について最近ふと思うことがあった。筍の美味は穂先にあり、そのコーンのような甘い香りとほのかな甘さこそが魅力であると思っていたが、近頃はもっぱら根元にこそ旨みを感ずるのだ。ただしこの“旨み"はもともと私が筍に求めていた、あるいはそれこそが旨みであると思い込んでいた「甘いおいしさ」ではなく、もっとミネラルに由来するような、グルタミックな旨みなのだ。“グルタミックな旨み"とは、つまり糖質的、あるいはタンパク質的なアミノ酸で構成されるような快楽的旨みではなく、人間が根幹的に必要としているビタミンやミネラルを知覚した味わいであり、この旨みは筍の他にホワイトアスパラガスや、こごみやわらびやたらの芽などの全ての根元に共通するものである。