PAGE...1|2|3
(上)セプティミウス・セウェルス帝の計画を引き継ぎ、ローマ帝国第22代皇帝カラカラがローマ市街の南端付近に212年から216年にかけて造営したローマ浴場。この建物群は浴場の他、図書館、劇場、集会場などを備える娯楽性の高いレジャー施設であった。また、古代ローマの帝政期以降は、男性間の同性愛がごく自然な行為と見なされていたため、発展場としての役割もあったという。なお、アッピア街道の当初のルートはカラカラ浴場付近を起点とした。
(左)ユネスコの世界遺産としても有名なマテーラも、アッピア街道沿いに位置する。石灰岩の侵食により形成されたグラビナ渓谷には、「サッシ」と呼ばれる洞窟住居が何層にも重なって存在する。8世紀から13世紀にかけて、東方からイスラム勢力を逃れた修道僧が住みつき、130以上の洞窟住居を構えたと伝わる。
(右)タラントの歴史は、古代ギリシャの植民地が置かれた紀元前8世紀までさかのぼる。スパルタからの植民者は、この町を神話の英雄ターレスにちなんでターレスと呼んだ。紀元前272年にローマによって占領された。ローマ人はアッピア街道をこの町まで延ばし、タレントゥムと呼んだという。旧市街地にあるサンカタルド大聖堂は10世紀に創建。タラントの守護聖人カタルドを祀(まつ)る。内部には創建当初のビザンチン様式のモザイクが残る。
そもそもアッピア街道を建設した目的は、機能的な軍用道路の確保だ。だから、流れ出た溶岩に添って、丈夫でまっすぐな街道を造った。そして、特筆すべきは、基本的な舗装構造が現代の舗装道路と酷似していること。断面で見ると、深さ1・5m程度の4層構造になっており、下層路盤が大きな石、中層路盤が中くらいの石、上層路盤が粘土と砂利を混ぜた層、表面は分厚く頑丈な玄武岩で隙間なく埋め尽くされている。つまり、表面の玄武岩をアスファルトやコンクリートに置き換えると、ほぼ現代の舗装道路と同様の構造だというわけである。
 アッピア街道の当初のルートは、ローマのセルウィウス城壁出口の一つカペーナ門(カラカラ浴場付近)を起点とし、アリッチャ、アッピウスのフォルム、テッラチーナ、フォンディ、フォルミア、ミントゥルナエ、シヌエッサ、カプアまで。それが紀元前190年には、ベネベントやベノーザまで延び、さらにタラントとブリンディジまで延長した。
 こうしてまっすぐで頑丈なアッピア街道を建設することで、軍を迅速に移動させ、各都市を制圧。支配地域を広げていったのである。
 そして、ローマの文化や技術、帝政末期に国教となったキリスト教を、世界に普及させたのだ。
PAGE...1|2|3
LINK
TRAVEL
古代都市の香りが残るアドリア海の町アクレイア
>>2016.5.9 update
STYLE
鳴門海峡
>>2019.7.2 update
STYLE
東京の“フーゾク”は愉快でエレガントだよ。Sky TG24 Pio d´Emilia
>>2014.2.26 update
RESTAURANT
リストランテ ラコメータ
>>2009.1.9 update
STYLE
Audi A8で走る『お茶につながる街道』と『真田家所縁の地、信州 北国街道』
>>2014.3.6 update

記事カテゴリー