PAGE...1|2
1760年に誕生した北斎は、20歳の頃には勝川派の絵師として“春朗"と号し錦絵を発表し始める。35歳頃、勝川派を離れ、春朗号を廃して、琳派の俵屋“宗理"を襲名。浮世絵画派とは一線を画した活動が増え、肉筆画や狂歌絵本の挿絵といった新たな分野に意欲的に取り組んだ。40歳手前で宗理号を門人に譲り、北斎辰政を名乗っていた。

 一般的によく知られる“葛飾北斎"を名乗っていたのは、当時江戸で流行し始めた読本の挿絵に傾注した時期。46歳で北斎が絵を、曲亭馬琴が物語を手掛けた『新編水滸画伝』が初出版され、その後の馬琴と組んだ初の長編小説『椿説弓張月』は、両者の代表作となるほど人気を博した。中国画的な力強い表現に洋風表現も取り入れた幻想的な画面によって作り出した劇画的世界が、当時の町民たちを物語の世界に引き込んだのだろうか。

 “戴斗"号を用い始めた51歳頃には、人気が高まるにつれ増加する門人や私淑する全国の人々に絵の手本を与えようとしたのか、絵手本に関心を持ち始める。55歳の時に絵手本『北斎漫画』を初編刊。以降、毎年絵手本を出し続け、『北斎漫画』の最終15編が上梓されたのは北斎没後30年が過ぎたころだった。それまで師から弟子に肉筆で描き与えることが一般的であった中で、大量の印刷本による手本は画期的なものだ。

 そして61歳で号を“為一"(いいつ)と改め、錦絵の揃物(そろいもの)を多く制作した。有名な「冨嶽三十六景」もこの時期のことである。そして最晩年、描くテーマも浮世絵師の世界から離れ、自由な発想と表現による肉筆画に専念した“画狂老人卍"の時期。長寿を願い、100 歳まで生きれば「神妙」の域に達し、さらに描く対象の「一点一格」が生き生きとしたものになると信じ、筆を休めることはなかった。1849年4月18日の朝、北斎は90 歳で生涯を終えた。「あと10 年、いや5 年命が保てば真正の画工になれたのに」と言い遺し、息絶えたそうだ。

 最後の最後まで描くことと向き合い続けた、その壮大な画業を通覧できる「新・北斎展 HOKUSAI UPDATED」の展覧会鑑賞券を5組10名にプレゼントする。

>>「新・北斎展 HOKUSAI UPDATED」の展覧会鑑賞券を5組10名様にプレゼント
応募締め切り:1月7日(月)まで
プレゼントの応募はこちらから会員ログイン


●森アーツセンターギャラリー
TEL03-5777-8600(ハローダイヤル) hokusai2019.jp/
葛飾北斎《向日葵図》紙本1幅 弘化4年(1847) シンシナティ美術館 Cincinnati Art Museum, The Thoms Collection-Given by Mrs. Murat H. Davidson in Honor of her Grandfather, Joseph C. Thoms, 1982.15 通期展示
本邦初公開となる、北斎が88 歳の時に描いた向日葵図。向日葵を題材とした作品はあまり例がない。竹に支えられた向日葵がすっくと伸び、大輪の花を咲かせている。一見大胆な構図ながら、花は細やかに描写され、北斎晩年の独特な生命感を宿した作品となっている。
PAGE...1|2
LINK
CULTURE
美術館が手掛けるアートなショコラ
>>2019.1.24 update
CULTURE
新感覚のデジタルアート展
>>2021.5.18 update
CULTURE
中国青銅器の文様と語る
>>2018.11.12 update
CULTURE
50年の軌跡をひとつの作品に
>>2019.2.14 update
CULTURE
モネも愛した「水の画家」
>>2019.3.13 update

記事カテゴリー