
(左)駿河台下交差点付近では、三省堂や書泉グランデなどの新刊書店も堂々の存在感を発揮。また、駿河台下から明大通りを北に行った所には、毎日古書の市が立つ東京古書会館。古本流通の拠点である。
(右)“100 年企業” も少なくない古書店街だが、近年は郊外から進出してきた古書店が増えてきた。「近隣住民のニーズを気にせず、自分の好きな分野の本を扱いたい」という思いを強く抱く店主たちが集う。
(右)“100 年企業” も少なくない古書店街だが、近年は郊外から進出してきた古書店が増えてきた。「近隣住民のニーズを気にせず、自分の好きな分野の本を扱いたい」という思いを強く抱く店主たちが集う。
リベラルアーツの源
いつ頃からだろう、日本人の教養に対する思い入れが薄れてきたのは。社会が豊かになるにつれて、心の豊かさを教養に求めるのがおっくうになったのか。専門分野の知識を増やすことを最重要課題とする大学生が増えたのか。活字に対する拒否反応が出てきたのか。いずれにせよ、ここ数十年、活字離れが進んでいる。
特に近年は、より好みをしなければ、誰でも大学に入れる「大学全入時代」に突入。残念ながら学生の質が落ちていると言わざるをえない。年間1冊の本さえ読まない人もいると聞く。しかも自分の教養のなさを恥じるどころか、「その程度の知識もないのか」とあきれるようなことに対しても「そんなこと知りませんけど、それが何か?」と開き直るほど。下手したら、教養のない者がある者をねじ伏せてしまう世の中なのだ。
大学教育にも問題がある。とりわけ首をかしげるのは、14年ほど前に教養課程の要件が緩和された結果、多くの大学で教養課程の廃止や縮小が進んでいることだ。「専門と一般教養を分けて考える意識が薄れ、両者間の垣根が低くなった」と言われればそうだろうが、だからといって教養課程をなくすことは別の話のような気がする。その代わりと言っては何だが、新たに「リベラルアーツ教育」を掲げる大学が増えてきた。
特に近年は、より好みをしなければ、誰でも大学に入れる「大学全入時代」に突入。残念ながら学生の質が落ちていると言わざるをえない。年間1冊の本さえ読まない人もいると聞く。しかも自分の教養のなさを恥じるどころか、「その程度の知識もないのか」とあきれるようなことに対しても「そんなこと知りませんけど、それが何か?」と開き直るほど。下手したら、教養のない者がある者をねじ伏せてしまう世の中なのだ。
大学教育にも問題がある。とりわけ首をかしげるのは、14年ほど前に教養課程の要件が緩和された結果、多くの大学で教養課程の廃止や縮小が進んでいることだ。「専門と一般教養を分けて考える意識が薄れ、両者間の垣根が低くなった」と言われればそうだろうが、だからといって教養課程をなくすことは別の話のような気がする。その代わりと言っては何だが、新たに「リベラルアーツ教育」を掲げる大学が増えてきた。