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(左)専修大学前交差点寄りの靖国通り。ちょうどこの裏辺りに、地名の由来とされる神保伯耆守(ほうきのかみ)の屋敷があったという。
(右)古書店は靖国通り南側に軒を連ねる。ここで明治から今日まで、教養が蓄積されてきた。向かい側はかつて「学生・学帽などを売る洋服屋が多かった」とか。今は時代の流行を映す飲食店が主流だ。
守られた知の聖域
「東京大空襲の時、ここは焼かれなかったんです。以前は『たまたまだ』と言われてましたが、どうもそうではないらしい。セルゲイ・エリセーエフという日本文化を研究していたロシア系アメリカ人が、『神保町には古い文化があるから焼かない方がいい』と進言したようです。今、調査が進められています」
 これが真実なら、神保町は米軍に京都や奈良の古都並みに評価されていたことになる。ともあれ、神保町は第2次世界大戦後も、奇跡的に生き残ったのである。もっとも戦火を免れたとはいえ、周辺は焼け野原。終戦直後は食うや食わずの生活を強いられた人々には、とても本を
買ったり、読んだりする余裕はなかった。
 それでも教養を重んじる日本人の気質によるものか、戦後の混乱が収まるにつれて「活字に対する飢餓感」が大きくなった。それに呼応するように、すずらん通りに戸板に本を並べて売る露店ができた。この頃は本を読みたい人と、自宅に焼け残った本で“売り食い"をする人の需要と供給に支えられる形で、いわゆる古本業が活況を呈したのである。
 さらに1951(昭和26)年末に露店廃止を受けて露店の店舗化が進み、靖国通りに現在の原形となる古書店街が形成されていく。一方でGHQの指令により全国に新制大学が誕生したことも追い風になり、神保町は日本人の教養への飽くなき探求を象徴する町へと進化した。さらに昭和30~50年代には店舗のビル化が進み、いっそうの発展を遂げたのだった。八木氏が家業を継いだのはちょうどその頃、店をビルに建て替えた1961(昭和36)年だそうだ。
南洋堂書店は建築に関連する書籍を、古書から新刊本まで取りそろえる。モダンなデザインの店舗がその思想を映すよう。
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