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維新の落とし子
 江戸時代の神保町には、幕府直轄の旗本の屋敷が並んでいた。ところが明治維新とともに、町の様相が一変する。武士がどこへともなく離散し、空いた土地に京都から公家たちがやって来た。教養の流入である。
 「お公家さんは勉強するから、子弟のための学校が必要だったのでしょう。華族の子どものための錦華小学校(現・お茶の水小学校)ができ、今の学士会館の所には東大の前身の一つである大学南校ができました。以後、明治10年代くらいから、現在の明治大学、中央大学、日本大学、専修大学などが相次いで創立され、神保町は学生や研究者が集まる町に変貌していきました。それにともなって、かつては増上寺周辺にあった出版と小売の両方をやるタイプの本屋が神保町にどんどん移ってきたわけです。その間、明治の大火があり、お公家さんたちは『風下は怖い』と高台に引っ越しましたが、学校と本屋は増え続けたんです」
 と八木乾二(やぎけんじ)氏。1934(昭和9)年創業の八木書店の2代目だ。
 江戸の町に火事はつきもの。神保町もその例に漏れない。とりわけ1907(明治40)年の大火は、町並みを変えるほどの変化をもたらしたという。
 「当時、本屋は50軒くらい。出版も新刊もやるし、本の供給が間に合わないからと、お客さんが読んで不要になった本を売る古本業も手掛けて、何でもアリだったようです。当時はすずらん通りがそういう本屋の集まる“表神保町"でしたが、火事の後は市電を通すために道幅を広くした靖国通りがメーンになりました。その時、本屋は紙が日に焼けるのを嫌って通りの南側、北向きに並びました。向かい側に本屋はないでしょ?」
 その後も神保町は関東大震災で壊滅的被害を受けながらも復活。今も残る木造2~3階建ての長屋スタイルの店舗は、「外見は中途半端な洋風で、内側は伝統的町屋建築」であることから「看板建築」と呼ばれ、震災後に一斉に建てられたものである。
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