






(左)10代藩主の五島盛成の隠殿屋敷の梅の間は、居間として愛用された。中秋の名月が目の前に見えるため、ハスの花と満月を眺めて楽しんだそう。また亀好きで池の随所に、亀に似た鬼岳の溶岩石を据えている。(上、左上から)梅の間の唐紙模様は、ねじ梅の紋。当時は梅に金箔を使った。 / 教養人であった盛成らしく、細部にまでこだわりを見せている。 / 亀が好きだった盛成は欄間や釘隠しまでその模様を施した。 / ツバキの自生地として有名な五島。これから盛りとなる。 / 丁寧に作られたウサギの釘隠し。 / 女中部屋から各化粧部屋を見通す。武家屋敷造りで隠し扉なども。
五島を治めた五島氏
五島列島( 小値賀(おぢか)島を除く)は、鎌倉時代から幕末まで、五島( 宇久(うく))氏が治めた。その歴史は五島列島の最北東に位置する宇久島に、1187(文治3)年に平家の落人(家盛説あり)が上陸したことに始まる。その後、宇久姓を名乗った。その宇久氏は徐々に南下して勢力を広げ、1413(応永20)年に小値賀島を除く五島列島を統一した。1507(永正4)年に宇久囲(かこむ)が、妹婿の玉之浦納(おさむ)の反逆によって命を落とす。妻子は平戸に逃れて、その後1521(大永元)年に囲の子、三郎(宇久盛定(もりさだ))が玉之浦納を討ち再興を果たす。
1526年に領主となった盛定は、新たに深江(福江)川の河口の丘に江川(えがわ)城を築いた。1540(天文9)年になると、東シナ海を中心の貿易商人として活躍していた明国人、王直(おうちょく)がさらに勢力を拡大するため、通商を求めて福江に来航。この頃、財政難に陥っていた宇久盛定は、よろこんで王直に通商を許し、江川城下の高台に居住地を与えた。こうして唐人町が開かれ、付近一帯が交易の場として栄えた。その名残として、飲料用水、船舶用用水として造った六角井戸(ろっかくいど)や、王直らが航海の安全を祈った廟堂(びょうどう)跡地だという明人堂(みんじんどう)がある。
1526年に領主となった盛定は、新たに深江(福江)川の河口の丘に江川(えがわ)城を築いた。1540(天文9)年になると、東シナ海を中心の貿易商人として活躍していた明国人、王直(おうちょく)がさらに勢力を拡大するため、通商を求めて福江に来航。この頃、財政難に陥っていた宇久盛定は、よろこんで王直に通商を許し、江川城下の高台に居住地を与えた。こうして唐人町が開かれ、付近一帯が交易の場として栄えた。その名残として、飲料用水、船舶用用水として造った六角井戸(ろっかくいど)や、王直らが航海の安全を祈った廟堂(びょうどう)跡地だという明人堂(みんじんどう)がある。