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こうして諸外国との交流が常にあった五島の人は、九州本土の人とは違う習俗を持っていたようだ。8世紀に編纂(へんさん)された『肥前国風土記』によると、「この島の白水郎(あま)は容貌、隼人に似て恒に騎射を好み、その言語は俗人(くにひと)(肥前国人)に異なり」とある。隼人は九州南部にいた人々で日本国家から異民族視された。これは五島では九州南部、南西諸島との交流が盛んだったことも意味し、五島の人が広域のネットワークを持っていたことがわかる記述といえる。
 一方、都人にとって五島はどういった存在なのか。それは、地の果て、鬼門であったようだ。9世紀後半の儀式書には、年末に行われる疫鬼を払う行事の時に、陰陽師が唱える祭文の中に「五島は日本国の西の境界で疫鬼(えき)が住みかと定め」とある。この祭文のような発想の裏には、疫病は大陸から侵入するという、貴族たちの恐怖心があったのだ。
 また、日本人にとってあの世は、古代から海の向こうの「常世の国」というイメージがある。『蜻蛉日記』には、「死者や疫鬼の住む異世界と日本の境界線上に五島( 三井楽(みいらく))が位置する」と考えられていたことを物語る一節が記されている。
 「僧ども念仏(ねぶつ)のひまにものがたりするを聞けば、『このなくなりぬる人の、あらはに見ゆるところなんある。さて近くよれば、きえ失せぬなり。遠うては見ゆるなり』、『いづれの国とかや』、『みゝらく(三井楽)の島となむいふなる』」
(上)標高250mの大瀬山から東シナ海に突き出す断崖絶壁の大瀬崎。突端の白い灯台は、福江島の最西端を航行する船を見守ってきた。この大瀬崎灯台は、日本の灯台50選、日本の夕日100選にも選ばれている。(下)武家屋敷通り。2代藩主の五島盛利が各地に散在していた豪族や藩士を福江のこの地に住まわせた。溶岩の塊を積み、上に丸い玉石“こぼれ石”を載せた石垣が続く。約400年前の姿そのままである。
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