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興隆寺
始祖・琳聖太子が建立したと伝わる大内氏の氏寺。滅亡後は衰退したが、義隆が寄進した梵鐘は見事。四天王や雲龍模様が鋳出され、京と大陸文化を融合した大内文化を代表する工芸品である。
大内氏がさらに勢力を増大させたのは、28代教弘(のりひろ)の頃だ。朝鮮交易を盛んにする一方で、文化の振興にも注力。現在、八坂神社や築山神社のある辺りに築山館を築造し、ここを舞台に大内文化の素地を形成した。常栄寺雪舟庭は、その遺産の一つだ。29代政弘(まさひろ)の別邸に造られたこの庭は、山林を背景に池と立石を配した簡素にして豪放な造り。雪舟の水墨画の世界が具現化されている。この庭が象徴するように、大内文化は政弘の時代に開花。都の文化人を招いて華麗な京文化を醸成するとともに、交易により流入した大陸文化を融合し独自の文化を発展させた。勢力といい、文化といい、山口が「小京都」ではなく「西の京」と呼ばれるゆえんである。
 こうして大内氏の栄華は31代義隆の時代に極に達した。ただ応仁の乱で荒廃した京都から、相当数の公卿文人がやってきた功罪と言うべきか、義隆は文雅を愛したがゆえに武断派の重臣、陶隆房(すえたかふさ)(晴賢(はるたか))に謀反を起こされ自刃。1551年に大内氏の正統は断絶してしまった。
 「戦いは負けたら終わり。大内氏の建てた寺社はことごとく毛利に乗っ取られ、寺号が変わったり、場所が移されたりしています」と末冨氏。なるほど、寺社の移り変わりが複雑でわかりにくいわけだ。もしかしたら大内氏の存在が強大であるがゆえに歴史の闇に葬り去りたい毛利の気持ちの表れだったかもしれない。
龍福寺
歴代大内氏が政務を執った大内館。毛利隆元は大内氏滅亡後、その跡地に、養父でもあった31代義隆の菩提を弔うためにこの龍福寺を建立した。参道の紅葉は見所の一つ。
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