名実ともに「西の京」
その後大内氏は勢力をどんどん拡大していく。弘世の子で25代義弘(よしひろ)は周防・長門・石見・和泉・紀伊・豊前6カ国の守護を務め、都にあっては足利氏と敵対した山名氏清(やまなうじきよ)との戦いに功を立てた。時の将軍足利義満から「お前を足利一門に列する」との賛辞を得たという。ところがあまりにも勢力が強くなり過ぎた。
「島根や滋賀にも領地を拡大したことに加えて、朝鮮との交易で巨大な富を築き、日本一の大大大名に発展したから、義満は恐れたんですね。対立の溝が深まり、1399年に大坂の堺で応永の乱が勃発しました。町は戦火に焼け落ち、義弘は自刃してしまいます」(末冨氏)
武人・義弘は信仰心も篤く、香積(こうしゃく)寺、禅昌寺、法泉寺を創建。また文学を好み、和歌や連歌に秀でた人物だったと伝えられる。その義弘の菩提を弔うために、弟の26代盛見(もりはる)が建てたのが、大内文化の華、五重塔だ。もともとは香積寺境内にあったが、毛利氏が解体して萩に引寺し、今は瑠璃光寺に立つ。5層の陰翳がえも言われぬ美しさを放つ古塔である。
「島根や滋賀にも領地を拡大したことに加えて、朝鮮との交易で巨大な富を築き、日本一の大大大名に発展したから、義満は恐れたんですね。対立の溝が深まり、1399年に大坂の堺で応永の乱が勃発しました。町は戦火に焼け落ち、義弘は自刃してしまいます」(末冨氏)
武人・義弘は信仰心も篤く、香積(こうしゃく)寺、禅昌寺、法泉寺を創建。また文学を好み、和歌や連歌に秀でた人物だったと伝えられる。その義弘の菩提を弔うために、弟の26代盛見(もりはる)が建てたのが、大内文化の華、五重塔だ。もともとは香積寺境内にあったが、毛利氏が解体して萩に引寺し、今は瑠璃光寺に立つ。5層の陰翳がえも言われぬ美しさを放つ古塔である。


今八幡宮本殿・拝殿・楼門
(左)大内氏が山口に移る以前からの古い社と伝えられている。現在の社殿は室町時代後期に建立されたもの。本殿・拝殿・楼門が結合した様式は、山口特有のものだという。(右)29代政弘が山口の鎮守と定めた。大内館北東の鬼門除けに当たる守護であり、産土神であることから「山口総鎮守」とされる。取材当日は「福部童子の祭り」が行われていた。
(左)大内氏が山口に移る以前からの古い社と伝えられている。現在の社殿は室町時代後期に建立されたもの。本殿・拝殿・楼門が結合した様式は、山口特有のものだという。(右)29代政弘が山口の鎮守と定めた。大内館北東の鬼門除けに当たる守護であり、産土神であることから「山口総鎮守」とされる。取材当日は「福部童子の祭り」が行われていた。