都への強いあこがれ
大内氏が歴史の表舞台に躍り出たのは14世紀半ばのこと。周防・長門2国の守護職となった24代弘世(ひろよ)が、大内氏繁栄の基礎を固めた。
時は南北朝時代。弘世は最初、南朝側に与(くみ)したが、守護職に就任した3年後には北朝側に転じた。どうやら熱烈なラブコールがあったらしい。
「室町幕府第2代将軍足利義詮(よしあきら)のもとへ挨拶に行った弘世は、びっくり仰天! 一目で京都の町の美しさにほれ込みました。当時の大内家は大内村という山の中の一寒村にあったのですが、これから山陰・九州にも力を拡大することを考えたら、こんな辺鄙(へんぴ)な所では立ちゆかない。町中に出て行こうと、京都盆地に似た地形の山口に目をつけて、京都を模した町づくりに着手したのです」
と末冨延幸氏(山口市観光ボランティアガイドの会)。大内氏を研究すること20年のベテランガイドだ。
時は南北朝時代。弘世は最初、南朝側に与(くみ)したが、守護職に就任した3年後には北朝側に転じた。どうやら熱烈なラブコールがあったらしい。
「室町幕府第2代将軍足利義詮(よしあきら)のもとへ挨拶に行った弘世は、びっくり仰天! 一目で京都の町の美しさにほれ込みました。当時の大内家は大内村という山の中の一寒村にあったのですが、これから山陰・九州にも力を拡大することを考えたら、こんな辺鄙(へんぴ)な所では立ちゆかない。町中に出て行こうと、京都盆地に似た地形の山口に目をつけて、京都を模した町づくりに着手したのです」
と末冨延幸氏(山口市観光ボランティアガイドの会)。大内氏を研究すること20年のベテランガイドだ。


(左)常栄寺の前庭「無隠」。常栄寺の22世、今井任桃(いまいにんとう)老師の晋山記念事業として、2012(平成24)年に作庭。ほかにも重森三玲が作った本堂の前庭「南溟庭」も見応えある。(右)四季折々の景観が素晴らしい常栄寺の雪舟庭。雪舟は大内氏の遣明船で大陸に渡り、禅学、画技を修めて帰国。大内氏の庇護の下、生涯のほとんどを山口天花の雲谷庵で過ごしたという。