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蕪嶋神社は1296(永仁4)年に厳島神社を勧進したのが始まりだと伝わる。「蕪嶋の弁天様」として信仰を集めてきた。弁財天は商売繁盛のほか、漁業の守り神でもある。本殿は昨年秋に全焼し今はない。


海運の発達
 八戸は寒冷地で米がとれないため、2万石の小藩にしては三戸郡から九戸郡まで続く、広い領地を与えられていた。米の生産性が低いということは、米穀を経済価値の基準とする幕藩体制では決定的に不利だ。
「やはり米がとれないことが、八戸藩にとって最大のデメリットといえます。この不利な条件を克服するために、米に代わる産物として、畑では大豆を作り、海で獲と った鰯を干鰯(ほしかや)〆粕(しめかす)などに商品化して、これを江戸に船で運んだのです。特に8代藩主・信真が行った1819(文政2)年の藩政改革後は、国産物販売を強力に展開し、大豆や干鰯、〆粕などとともに、九戸郡の山中から産出される鉄、いわゆる南部鉄ですね、これをたくさん移出して、金を稼ぐようになります」
江戸時代の後期となると、江戸では醤油産業が盛んになり、すしやそば、天ぷらが広く庶民に普及し、急速に醤油の需要が伸びた。そこで原料の大豆を東北に求めるようになり、江戸まで八戸の大豆が流通するようになった。また、江戸周辺の田畑にすき込む肥料として、干鰯や〆粕の需要も高まった。鮭や鮑漁が盛んだった八戸でも、鰯漁がその中心となった。鰯を獲った後、鰯をゆでて油を搾り、鰯を干す場所(加工場)の確保をめぐって争いが起きるほど、とにかく干鰯を生産した。南部鉄は鋤すきや鍬くわなどの農具の製造が盛んな関東地方へ。そのほか、仙台藩で発行した鉄銭の原料として石巻銭座に大量に供給した。こうした米以外の産品が、八戸藩の重要な収入源となったのだ。
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