
(上段左)かつての大坂の商人が寄進した古い石灯籠がある神明宮。(上段中)南宗寺には南部家の歴代藩主の墓碑が並んでいる。
(上段右)南宗寺山門は、青森県の県重宝建造物に指定された。(下段左)小高い森に鎮座する長者山新羅神社の本殿は1827(文政10)年のもの。
(下段中)海上安全を祈って江戸の商人が奉納した長者山新羅神社の狛犬。(下段右)長者山新羅神社は1678(延宝6)年に2代藩主・直政が建立。
(上段右)南宗寺山門は、青森県の県重宝建造物に指定された。(下段左)小高い森に鎮座する長者山新羅神社の本殿は1827(文政10)年のもの。
(下段中)海上安全を祈って江戸の商人が奉納した長者山新羅神社の狛犬。(下段右)長者山新羅神社は1678(延宝6)年に2代藩主・直政が建立。
八戸藩の誕生
「八戸の中心部は、東西に長細く台地で続いています。江戸時代はこの台地の突端に城を築き、その南に城下町が形成されていました。そして現在も、この頃のままの町割りが残されており、町名もそのままなのです。さらに各町の果たす役割もほとんど変わっていない、これが他の城下町と違う一番の特徴だと思います。例えば、権力の中枢である八戸城(内丸)には市役所が立ち、商業の中心地だった三日町や十三日町、廿三日町には地元の百貨店や飲食店などがある、一番の繁華街です。もう一つ、城下町と港(海)が近いことが大きな特徴として挙げられます」
と話す八戸歴史研究会会長の三浦忠司氏。つまり、江戸時代の城下町と港をそのまま建て替えて、使っているというわけだ。そのため、古い町並みなどはほとんど残っていないのが残念ではある。それでは、三浦氏の著書『八戸藩の歴史をたずねて』をもとに、現在の八戸の礎となった藩の誕生から振り返ってみる。
八戸藩2万石が盛岡藩から分離独立して誕生したのは1664(寛文4)年のこと。そもそも、盛岡藩2代藩主であった南部重直(しげなお)が世継ぎを決めぬまま死去したため、「遺領10万石を、重直の異母弟である南部重信(しげのぶ)に8万石(盛岡藩)、南部直房(なおふさ)に2万石(八戸藩)で分割統治せよ」と幕府の台命(将軍の命令)が下った。
これまでは、世継ぎがいない大名に対して「お家取りつぶし」を命じてきた幕府が、徳川4代将軍・家綱の頃になると、「分割統治」を推進するようになっていた。こうした時代の流れもあって、誕生したのが八戸藩だ。八戸藩の伝承を記録した『附録伝』によると、立藩する37年前、1627(寛永4)年に盛岡藩の初代藩主・南部利直の手によって、八戸城の建築と町づくりが行われていたという。
と話す八戸歴史研究会会長の三浦忠司氏。つまり、江戸時代の城下町と港をそのまま建て替えて、使っているというわけだ。そのため、古い町並みなどはほとんど残っていないのが残念ではある。それでは、三浦氏の著書『八戸藩の歴史をたずねて』をもとに、現在の八戸の礎となった藩の誕生から振り返ってみる。
八戸藩2万石が盛岡藩から分離独立して誕生したのは1664(寛文4)年のこと。そもそも、盛岡藩2代藩主であった南部重直(しげなお)が世継ぎを決めぬまま死去したため、「遺領10万石を、重直の異母弟である南部重信(しげのぶ)に8万石(盛岡藩)、南部直房(なおふさ)に2万石(八戸藩)で分割統治せよ」と幕府の台命(将軍の命令)が下った。
これまでは、世継ぎがいない大名に対して「お家取りつぶし」を命じてきた幕府が、徳川4代将軍・家綱の頃になると、「分割統治」を推進するようになっていた。こうした時代の流れもあって、誕生したのが八戸藩だ。八戸藩の伝承を記録した『附録伝』によると、立藩する37年前、1627(寛永4)年に盛岡藩の初代藩主・南部利直の手によって、八戸城の建築と町づくりが行われていたという。