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(左)小浜城址
関ヶ原合戦の後、若狭の国主となった京極家が松江に転封となり、次の国主・酒井忠勝が天守閣を造立。以後238年間、酒井家は小浜城を居城とした。今は城郭の石垣を残すのみ。
(右)岡津製塩遺跡
若狭地方では土器製塩遺跡が50カ所確認されている。ここ岡津では奈良時代に大きな土器で大量に塩を作り、調として平城京に送っていた。製塩は夏にだけ行われたそうだ。
それにしても、都の近くには志摩や淡路などの“うまいもの所"がたくさんあるのに、なぜ遠い若狭が御食国になったのか。芝田館長は「実は明確な証拠はない」としながら、二つの“状況証拠"を挙げる。一つは、古墳時代に若狭を治めたと言われる国造(くにのみやつこ)・膳(かしわで)氏の存在だ。
 膳氏はいわば天皇の料理番。宮中に食材を届けたり、食事を準備したりする大きな役割を担っていた。加えて、朝廷の任務で大陸に渡ったこともあるし、軍人としても活躍したとされる。その膳氏によって若狭は天皇家と直結するパイプを持ち、同時に北の玄関口としての存在感を強めたと推測される。これは、膳氏一族の墳墓らしき古墳群が発見されていることからも、かなり可能性の高い説と言えそう。また、都で若狭を“有名"にした、その担い手は大陸からの渡来人だったとも考えられる。
 こういった“下地"があったからこそ、若狭は奈良時代になって御食国を任じるとともに、「東大寺二月堂のお水取り行事の香水を、若狭国は遠敷川の水を鵜の瀬(うのせ)から送る」という栄誉にも浴したのかもしれない。若狭に伝わる「お水送り」伝説は、もう一つの“状況証拠"なのだ。
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