
「讃岐院眷属(さぬきのいんけんぞく)をして為朝(ためとも)をすくふ図」〈歌川国芳〉
嘉永4,5(1851,52)年頃 大判錦絵三枚続 36.0╳76.0㎝ William Sturgis Bigelow Collection, 11.26999-7001 Photograph ⓒ 2015 Museum of Fine Arts, Boston
平安末期、皇位継承に関わる内戦、保元の乱(1156年)で、崇徳(すとく)上皇に味方して敗れた強弓の武将、鎮西八郎源為朝(ちんぜいはちろうみなもとのためとも)が活躍する伝奇小説『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』(曲亭馬琴著、葛飾北斎絵)の一場面。父の仇平清盛(たいらのきよもり)を討つため出帆した為朝の船は、暴風雨のために難破した。妻の白縫(しらぬい)(画面右下)は身を投じて、海を鎮めようとする。自らの悲運を嘆き、切腹しようとする為朝を、讃岐院(崇徳上皇)が遣わした烏天狗が押しとどめる。その時、為朝のために忠死した家臣高間太郎(たかまたろう)とその妻が乗り移った巨大な鰐鮫(わにざめ)が海中よりあらわれ、嫡子の昇(舜)天丸(すてまる)を抱える喜(紀)平治(きへいじ)を背に乗せ救い出す。荒れ狂う白浪の躍動感を背景に画面一杯に描かれた鰐鮫は、四人の登場人物よりも先に目に飛び込み、危機一髪の為朝を救う一大スペクタクルの臨場感を生み出している。この国芳が生み出す奇抜な構図によって、江戸の人々は壮大で幻想的な架空戦記の世界に一瞬で虜になったに違いない。
嘉永4,5(1851,52)年頃 大判錦絵三枚続 36.0╳76.0㎝ William Sturgis Bigelow Collection, 11.26999-7001 Photograph ⓒ 2015 Museum of Fine Arts, Boston
平安末期、皇位継承に関わる内戦、保元の乱(1156年)で、崇徳(すとく)上皇に味方して敗れた強弓の武将、鎮西八郎源為朝(ちんぜいはちろうみなもとのためとも)が活躍する伝奇小説『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』(曲亭馬琴著、葛飾北斎絵)の一場面。父の仇平清盛(たいらのきよもり)を討つため出帆した為朝の船は、暴風雨のために難破した。妻の白縫(しらぬい)(画面右下)は身を投じて、海を鎮めようとする。自らの悲運を嘆き、切腹しようとする為朝を、讃岐院(崇徳上皇)が遣わした烏天狗が押しとどめる。その時、為朝のために忠死した家臣高間太郎(たかまたろう)とその妻が乗り移った巨大な鰐鮫(わにざめ)が海中よりあらわれ、嫡子の昇(舜)天丸(すてまる)を抱える喜(紀)平治(きへいじ)を背に乗せ救い出す。荒れ狂う白浪の躍動感を背景に画面一杯に描かれた鰐鮫は、四人の登場人物よりも先に目に飛び込み、危機一髪の為朝を救う一大スペクタクルの臨場感を生み出している。この国芳が生み出す奇抜な構図によって、江戸の人々は壮大で幻想的な架空戦記の世界に一瞬で虜になったに違いない。
下積み期間が長かった武者絵の歌川国芳
国芳は江戸日本橋にある染物屋の家に生まれた。幼少期から絵心があり、15歳の頃に初代歌川豊国に入門。しかし、師匠からの引き立てもほとんどなかったようで鳴かず飛ばずの時代が続いたと言われている。そのため、下積み期間は比較的長く、浮世絵師として名が知られるようになるのは、30歳を過ぎた文政10(1827)年ごろである。江戸では「水滸伝」の一大ブームが起こり、人々が物語に登場する豪傑たちに熱狂する中、国芳の描いた豪傑の絵が大ヒットする。「武者絵」の国芳と賞され、ここに人気絵師・国芳が誕生した。
その後も 、P3~4のような国芳の代表作とも言える大判3枚続きの大画面の迫力ある浮世絵を描くなど、武者絵だけでなく、風景画、戯画、動物画、怪奇絵などのさまざまなジャンルに斬新なアイデアを盛り込み、精力的に多くの作品を発表し、浮世絵師としての地位を確立していった。
その後も 、P3~4のような国芳の代表作とも言える大判3枚続きの大画面の迫力ある浮世絵を描くなど、武者絵だけでなく、風景画、戯画、動物画、怪奇絵などのさまざまなジャンルに斬新なアイデアを盛り込み、精力的に多くの作品を発表し、浮世絵師としての地位を確立していった。