


(上)復元された三菱一号館の内部。当時と同じ柱や天井の装飾、高い天井、自然光がたっぷり入る大きな窓は、明治の人々に新時代の到来を印象付けた。当時は銀行営業室だったこの部屋は、現在「カフェ1894」として生まれ変わった。
(下右)三菱一号館と丸の内パークビルの間には、緑豊かな中庭を設ける。植栽もかなり大きくなり、一年を通じてバラが見事に咲く。折々の花やヘンリー・ムーアの彫刻を見ながら一休みする人々でいつもにぎわう。
(下左)三菱一号館復元では当初の構造、素材を可能な限り再現。建設は手作業が多く、地上3階・地下1階建てでありながら、奥の高層タワー、丸の内パークビル(地上34階、地下4階)とほぼ同じ工期を要した。写真提供/三菱地所
(下右)三菱一号館と丸の内パークビルの間には、緑豊かな中庭を設ける。植栽もかなり大きくなり、一年を通じてバラが見事に咲く。折々の花やヘンリー・ムーアの彫刻を見ながら一休みする人々でいつもにぎわう。
(下左)三菱一号館復元では当初の構造、素材を可能な限り再現。建設は手作業が多く、地上3階・地下1階建てでありながら、奥の高層タワー、丸の内パークビル(地上34階、地下4階)とほぼ同じ工期を要した。写真提供/三菱地所
コンドルが岩崎家(三菱)の仕事に関わるようになったのは、これら政府の仕事を辞して自身の設計事務所を設立した後である。通常、御雇い外国人は政府の仕事を終えると帰国することが多いが、コンドルは引き続き日本にとどまった数少ない例だ。岩崎家が手掛ける大きなプロジェクトはコンドルにとって自らの能力を最大に生かす場であり、また生活を保障する手立てでもあった。なおコンドルは、丸の内関係では三菱一号館から三号館までを担当。そのほか岩崎彌之助の複数の邸宅の設計も行っており、現存する旧岩崎邸庭園の洋館もその一つである。
コンドルと日本の出合いは、彼が10歳の時にロンドンで開催された万国博覧会にさかのぼる。彼はここで日本美術に触れ、以降生涯を通じて日本の伝統文化に対する興味を失うことがなかった。大学卒業後に彼が最初に勤務した建築事務所の上司もまた日本美術の愛好者で、コンドルの日本への思いはいっそう強まったと考えられる。そして前述のソーン賞を受賞した年に日本政府と5年間の契約を交わし、翌年来日を果たす。
来日後は、教師兼建築家として忙しく過ごしながらも、精力的に日本伝統文化の研究を重ねた。とりわけ日本画への探究心は強く、河鍋暁斎(かわなべきょうさい)に弟子入りを果たし、暁英(きょうえい)の号を授かるほど本格的に修業した。暁斎に関しては、後にその画業に関する英文の著作を発表している。そのほか生け花、日本庭園に関する著作もあり、日本文化の良き理解者、紹介者として大きな役割を果たした。なおコンドルは日本人女性と結婚し、生涯を終えるまで日本で暮らした。護国寺に葬られ、妻とともに今もそこに眠る。
コンドルと日本の出合いは、彼が10歳の時にロンドンで開催された万国博覧会にさかのぼる。彼はここで日本美術に触れ、以降生涯を通じて日本の伝統文化に対する興味を失うことがなかった。大学卒業後に彼が最初に勤務した建築事務所の上司もまた日本美術の愛好者で、コンドルの日本への思いはいっそう強まったと考えられる。そして前述のソーン賞を受賞した年に日本政府と5年間の契約を交わし、翌年来日を果たす。
来日後は、教師兼建築家として忙しく過ごしながらも、精力的に日本伝統文化の研究を重ねた。とりわけ日本画への探究心は強く、河鍋暁斎(かわなべきょうさい)に弟子入りを果たし、暁英(きょうえい)の号を授かるほど本格的に修業した。暁斎に関しては、後にその画業に関する英文の著作を発表している。そのほか生け花、日本庭園に関する著作もあり、日本文化の良き理解者、紹介者として大きな役割を果たした。なおコンドルは日本人女性と結婚し、生涯を終えるまで日本で暮らした。護国寺に葬られ、妻とともに今もそこに眠る。