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もう一つ。僕が気になる「食語」は、この「いただく」。
 ――ご主人が自らさばいてくださった蟹をいただく。その有難さをじっくりと……(後略)――
 とある雑誌に掲載された記事。ここに書かれた「いただく」は、天や神ではなく、店の主人に対しての言葉である。記事の後段に、――一杯の蟹が、ご主人の手に掛かると至福の美味に変わる――とあるから、この記事の書き手は店の主人から「いただく」のである。
 「食す」「いただく」という言葉から見えてくるのは料理人崇拝主義とでも呼ぶべき、食に対する今の風潮である。それはブログなどで使われる、料理人に対する過剰な敬語にも表れている。
 どこそこで修業なさって、めでたく独立を果たされ、開店された。まだ三十過ぎの若い料理人を崇め奉る。
 そしてその店へ行くのに「訪問」という言葉を使うのも特徴的だ。個人の居宅ではなく、店へ食べに行くことをなぜ「訪問」と言うのか。それは食事そのものよりも、料理人に会うことを、第一義としているからだろうと思う。
 ――久々の訪問。まずは店主様の○○○さんに本日のオススメを伺う――
 雑誌の記事ならともかくも、普通の客にとって、何故料理人の名前が必要なのか。店との親しさを強調したい傾向は更に深まり、若い衆を君付けや、チャン付けで呼ぶ。美味しいものを食べに行くより、店と親しくなりたいがために通い詰めているとしか思えない。
 そしてその料理人たちを手放しで絶賛するのも特徴的。高みに持ち上げることで、その料理人と親しい自分も高い位置に居ると思いたいのだろう。時に料理人が客を見下すような物言いをしても、神妙な顔付きでそれを受け入れる。
 多くの客たちに取って、今や食の最大の関心は、食べることそのものより、店や料理人に向けられている。親しくなって、それを自慢気にブログなり口コミサイトに書きたい。これもまた最近の歪んだ傾向。
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