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(左)にし茶屋街。ひがし茶屋街と同じ1820(文政3)年、同じ経緯で、城下中心地から犀川大橋を渡った場所に整備された。今も営業する古くからの茶屋が多い。
(中央)主計町茶屋街。市街中心部から浅野川大橋を渡るすぐ手前にあり、川沿いに古い街並みが続く。桜の時季の景色も格別。
(右)泉鏡花記念館。鏡花の生家跡にある。主計町茶屋街に隣接する高台に立地。鏡花はここから坂を下り、茶屋街を通り抜けて通学した。
二つの川の流れとともに
 一方、犀星が生まれたのは犀川(さいがわ)のほとり。秋声と鏡花の生家に近い浅野川は「女川」と呼ばれるやさしい流れを特徴とするが、犀川は「男川」と称される力強い美しさを持つ。
 犀星は、三文豪の中でもっとも複雑な家庭環境、そしてもっとも悲しい幼少期を過ごしたといえる。彼の父親は士族で、母親は女中。私生児として生まれ、生後すぐに生家近くの雨宝院(うほういん)に引き取られた。ただし養家にはなじめず、たびたび実家に足を運び実母とつかの間の温かい時間を過ごしていたという。しかし9歳の時に実父が他界。不義をした女中として母は家を追われ、犀星に別れの言葉をかけることすらかなわずに姿を消した。この一件は当然、幼い犀星の心に深刻な傷を残した。
 母を慕う強い思いがある一方で、母の存在は彼に強烈なコンプレックスを生み出しもした。犀星は小学校で「妾(めかけ)の子」とからかわれ、また、のちに「夏の日の匹婦の腹に生まれけり」と詠んだ。匹婦とは、倫理をわきまえない卑しい女のこと。この句を詠んだ50歳過ぎに至るまで、犀星は母に対する複雑な感情を抱え続けていたことが分かる。
 犀星は小学校すら卒業することなく、13歳で裁判所の給仕として働き始める。ここでの上司に何人かの俳人がいて、彼らに手ほどきを受けたことが犀星を文学の道に導いた。新聞への投句から始め、17歳の頃には「犀川の西岸育ち」との意味で「犀星」を名乗るようになった。
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