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(上)往時の風情を残す、ひがし茶屋街。城下中心地から浅野川大橋を渡った場所に、川沿いに立ち並んでいた茶屋を集め1820(文政3)年に整備された。よく整った出格子が美しい。
(左)浅野川にかかる浅野川大橋は、1922(大正11)年にかけられたもの。独特の構造美を備えた、鉄筋コンクリート造のモダンな橋である。
(右)金沢市指定保存建造物である茶屋懐華樓は築約190年。伝統家屋らしいしつらえや金の茶室、中庭など昼間は全てを見学できる。
 現在、街の中心部で存在感を放つ尾山(おやま)神社の神門も、金沢の街の活力低下に際し市民の精神的支柱になれば、と1875(明治8)年に創建されたものだ。和漢洋の折衷で作られた独特の形、色ガラスのハイカラな輝きは、新しい時代の到来を市民に印象付けたに違いない。
 その後金沢の経済は、1898(明治31)年の鉄道路線開通をきっかけに好転し始める。金沢大学の前身である第四高等学校が1887(明治20)年に開校。仏教学者の鈴木大拙、哲学者の西田幾多郎といった巨人を世に送り出した。

金沢三文豪

 ともに低迷期の金沢に生まれ、明治、大正、昭和に活躍した作家がいる。「金沢の三文豪」と呼ばれる徳田秋声、泉鏡花、室生犀星だ。秋声は1871(明治4)年生まれ、鏡花は1873(明治6)年生まれの2歳違い。犀星はやや遅れて1889(明治22)年生まれである。
 彼らはまた、くしくも3人ともが花街のそばで生まれ育った。金沢では茶屋街と呼ばれる三つの花街が、いずれも川のそばで栄えてきた。今は風情ある街並みに整備されているが、当時は子供が近寄ってはいけない艶(つや)っぽい空気が色濃い遊郭街だった。秋声はひがし茶屋街、鏡花は主計町(かずえまち)茶屋街、犀星はにし茶屋街のそばで、それぞれ生まれ育った。彼らの記憶の奥底には、茶屋街独特の濃密な雰囲気がいつまでも消えず残っていたことだろう。
 また、彼らは3人とも不遇な幼少期を過ごしている。
 秋声は没落士族の家で、6人兄弟の末子として生まれた。彼はのちに「飛んでもない時に産まれて来た」と話している通り、時は明治維新後の混乱期、金沢の街の衰退期だ。士族である生家は困窮しており、秋声が母の胎内にいた時には知り合いの農家のもらい子になる話をつけていたという。実際には他にやられることはなかったが、住まいを転々とする貧しい生活、ひ弱な体が幼い彼に強い劣等意識を植えつけた。
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