
御嶽は時に人知れずポツリとたたずむ。シギラビーチで“発見”したこの岩のように、拝所(おがんじょ)の風情から御嶽とわかるものも多い。
第二に、沖縄本島よりも台湾やフィリピンなどの南方の影響を強く受けていたらしいことが挙げられる。2800年前から1900年前の遺跡とされる城辺・新城海岸付近のアラフ遺跡で、南方系文化が展開していたことを示唆する、シャコ貝製のおのやイモ貝で作られた装飾品などが出土しているのだ。沖縄本島の同時代の遺跡からは、そういった貝製品は出ていない。さらに時代をさかのぼると、上野字野原のピンザアブ洞穴で発見された2万6000年前の化石人骨は、骨格が今のマレーシア辺りに住んでいたワジャク人と同じだという。とはいえ、このピンザアブ洞人が現在宮古島に住む人たちの祖先と考えるのは早計だが、地理的に見て、南方系の人たちが渡来して文化や風習を伝えた可能性は高いだろう。
御嶽の数は900以上!
さらに特異なのは、現存する御嶽が900以上と、沖縄県内でも圧倒的に多いことだ。御嶽とは、杜(ムイ)・山(ヤマ)・元(ムトゥ)・里の神・根所(ニードゥクル)と呼ばれる聖地の総称である。山や杜そのものを聖地と考え、そこに石や香炉を置いてイビと呼び、信仰の対象を祀る。御嶽の神々には、時を定めて遠来する神や、その地に常駐して人々を守護する祖先神、伝承や由来を持った英雄神・産業神、血縁や地縁によるものなどがある。そういった神々が神祭りを通して人々を守り、村の災いを除き、豊穣をもたらすものとして信仰されているわけだ。
ただし御嶽と名づけられたのは15~ 16世紀、琉球王国の支配が強まってからのこと。それまでは各地でさまざまな呼称があったという。いずれにせよ宮古島では、琉球王国に支配される以前から極めて狭い範囲の小さな集落ごとに御嶽があって、集落の皆が堅固な絆で結ばれていた。だから今日なお、多くの御嶽が生き残っており、厚い信仰を集めているのではないだろうか。
御嶽の数は900以上!
さらに特異なのは、現存する御嶽が900以上と、沖縄県内でも圧倒的に多いことだ。御嶽とは、杜(ムイ)・山(ヤマ)・元(ムトゥ)・里の神・根所(ニードゥクル)と呼ばれる聖地の総称である。山や杜そのものを聖地と考え、そこに石や香炉を置いてイビと呼び、信仰の対象を祀る。御嶽の神々には、時を定めて遠来する神や、その地に常駐して人々を守護する祖先神、伝承や由来を持った英雄神・産業神、血縁や地縁によるものなどがある。そういった神々が神祭りを通して人々を守り、村の災いを除き、豊穣をもたらすものとして信仰されているわけだ。
ただし御嶽と名づけられたのは15~ 16世紀、琉球王国の支配が強まってからのこと。それまでは各地でさまざまな呼称があったという。いずれにせよ宮古島では、琉球王国に支配される以前から極めて狭い範囲の小さな集落ごとに御嶽があって、集落の皆が堅固な絆で結ばれていた。だから今日なお、多くの御嶽が生き残っており、厚い信仰を集めているのではないだろうか。