

1 御田植祭の日、目に見えない稲の精霊と相撲をとる一人角力と、少年相撲大会の奉納が行われる。古式床しい行事である。
2 神饌田。御田植祭では、島内から選ばれた 16 名の早乙女が清廉な装いで、古式に則った田植えの儀式を行う。
3 石段を上り、切妻造の神門を抜けると、正面に拝殿が見える。切妻素木造、屋根は檜皮葦、正面中央一間に向拝を持つ。
2 神饌田。御田植祭では、島内から選ばれた 16 名の早乙女が清廉な装いで、古式に則った田植えの儀式を行う。
3 石段を上り、切妻造の神門を抜けると、正面に拝殿が見える。切妻素木造、屋根は檜皮葦、正面中央一間に向拝を持つ。
由緒には諸説あって、「仁徳天皇の御代に大山積大神が百済から渡来して、この地に鎮座した」とも、「神武東征に先駆けて、大山積大神の子孫である小千命が四国に渡って大三島に祖神の大山積大神を祀った」とも言われる。いずれにせよ、遥か昔の話。境内のそこここで樹齢 2000 年・3000 年級の大楠に出合うと、神代の昔に迷い込んだような心地になる。大山祇神社の大楠群は、38 本が国の天然記念物に指定されているという。
ここで少し、水軍との関わりについて触れておこう。急流渦巻く来島海峡周辺を発祥地とする伊予水軍は、もともとは「いざ合戦」という時に船や乗組員を提供する漁業者集団だった。源平合戦の頃は、源氏・平家双方がこの水軍を抱き込もうと腐心したことはよく知られている。その“臨時水軍"が自らの意志で戦う集団に変貌したのは、鎌倉末期のこと。
ここで少し、水軍との関わりについて触れておこう。急流渦巻く来島海峡周辺を発祥地とする伊予水軍は、もともとは「いざ合戦」という時に船や乗組員を提供する漁業者集団だった。源平合戦の頃は、源氏・平家双方がこの水軍を抱き込もうと腐心したことはよく知られている。その“臨時水軍"が自らの意志で戦う集団に変貌したのは、鎌倉末期のこと。
