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駒沢オリンピック公園には高さ50mのオリンピック記念塔が、そのシンボルとしてそびえる。オリンピック開催時に交通規制を行うため回廊が設けられており、それを監視するために最上階にはテレビカメラが取り付けられている。全体の設計監理は、高山英華、村田政真、芦原義信が所属する東京都オリンピック施設建設事務所が担当。
丹下健三は日本そのものだった
紀元前776年にギリシャでオリンピックが始まったときは直線をいかに速く走るかを競うだけだったというが、オリンピアなど壮大な建築と大会の結び付きだけは古来変わっていない。オリンピックといえば建築という深い結び付きは継承されている。建築とは大なり小なり一種のモニュメントだ。自邸を建てるのが自分の人生における偉業であるのと同様、為政者も自分の記念碑を建てたがる。そして同時に、建設に当たっての経済波及効果の大きさが周囲からの支持を集める理由となる。
 1964年の東京大会といえば、建築家の丹下健三による国立屋内総合競技場(現・国立代々木競技場)が知られている。美的な外観と調和のとれた屋内によって、今も傑作の誉が高いが、丹下健三はこれを単なる建物にとどまらず、周囲の道路まで設計に取り込んだプロジェクトとして構想した。
 オリンピックは「スポーツを通じた青少年の教育によって、体、精神、心のバランスが取れた健全な人間と、人間の尊厳を守る平和な社会を作ること」を憲章に謳うが、同時に都市も作ってきた。
 64年の東京大会は、都市改造計画に多額の資金をつぎ込むことで、大量の消費人口を抱え込める住宅整備が整い、東京のメガロポリス化を推進する働きをした。都市計画を考えるのを好んだ丹下健三の建築は、58年の香川県庁舎から、64年の東京カテドラル聖マリア大聖堂を経て、90年の新東京都庁舎にいたるまで、壮大さによって時代を象徴している。
 これこそ、日本の経済発展の歴史そのものだ。64年のオリンピックへの郷愁は、経済成長期への懐かしさと背中合わせになっている。
 だが、今回の東京大会決定の報に接しても、復興した東京の姿を見てもらいたい、日本人の力を世界中に認めてもらいたい、という40年や64年のような強い思いは感じられない、と言う人も少なくない。
 原発を含めた震災から復興してこそ、「新生日本の出発をオリンピックに託そう」(『東京オリンピックへの遥かな道』)という原点に回帰できるのではないかという意見もあり、正鵠を射ている気がする。誰もが住みよい国へと変わったときにこそ、オリンピック参加への強い思いも生まれてくるのではないか。熱情とは本来、そういうものである。
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