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藤原道長と恋仲だった?

 室町時代の『尊卑分脈』という系図集に、紫式部に関する重要な情報が書き込まれている。「道長の妾」という文字だ。これをめぐって、「紫式部は道長の妻の一人だった」とする説がある。それは史実なのか。
「源氏物語を愛する紫式部崇拝者は、『室町時代になって書き加えられただけで、事実ではない』と言いますね。私は逆で、火のない所に煙は立たんやろと。道長から声が掛かって、応じない手はありませんよ。我が家安泰じゃないですか。あと日記にも、道長が早朝やって来て、激しく戸を叩いた話が出てくるんです。紫式部は追い返したことになってますが、その後どうなったかねぇ。瀬戸内寂聴さんは、『一応、社交辞令で断ってるけど、後には受け入れてますよ。受け入れない手はない』と言ってました。私も同感です」(朧谷氏)
 道長は紫式部のスポンサーであり、夫でもあったかどうかはさて置き、三田村氏は“不仲説"を採る。「紫式部の理解者は彰子なんです。道長は全然理解していない。性的なことばかり書いてる色好みの女なんだろうとか、あてこすりばかり言う。例えば道長が彰子の出産祝いに自分が大切にしていた最高の硯を贈った時、彰子は『大作家にこそふさわしい』と、紫式部にあげちゃったんですね。道長は怒って、『お前は俺の大事な物をすぐに奪ってしまう』って、紫式部に八つ当たりして。あと彰子が源氏物語の全冊そろいの豪華本を作ったことを、妹の妍子がうらやんで『私も欲しい』と道長におねだりした時のこと。道長は何と、紫式部の部屋を家捜しして清書する前の元原稿を盗んだんですよ。紫式部は日記ですごく嘆いていました、手元に一冊もなくなったって」
 そんなエピソードを聞くと、二人が恋仲だったとはとても思えなくなる。ケンカするほど仲が良かったの
か、本当にいがみ合っていたのか、いずれにせよ、面白い。

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(左)清凉寺は一世源氏の源融が建てた山荘・棲霞観と、その後に寺院となった棲霞寺の故地である。
仏道に帰依したい気持ちもあって光源氏が建てた嵯峨野の御堂のモデルとされる。

(右)清涼寺の霊宝館に鎮座する国宝・阿弥陀三尊坐像。
源融がこの地で亡くなる直前、自分の顔に似せて造らせたという「光源氏写し顔」の伝説がある。
極端にくびれた腰が官能的。
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