
十帖「賢木」では、斎王として伊勢神宮に仕えるためにここ野宮(ののみや)神社で潔斎する娘に付き添って、六条御息所がやって来た場面が描かれる。
光源氏との別れの舞台でもある。
光源氏との別れの舞台でもある。
神垣はしるしの杉もなきものを
いかにまがへて折れる榊ぞ
いかにまがへて折れる榊ぞ
源氏物語、誕生
結婚生活は3年足らず。夫亡き後、紫式部は鬱々とした日々を送る。この頃だ、慰めに物語を書き始めたのは。互いに作品を見せ合い、文学を熱く語る仲間がいたという。「恐らく源氏物語が最初の作品ではなく、それまでに小さな物語をいくつか書いていたと思います。その中で源氏物語が人気になって、仲間の要望に応えて次々と書いたのでしょう。書物はふつう巻一、巻二といった数字を冠しますよね? でも源氏物語は、『桐壷の巻』とか『若紫の巻』とか、書名が付けられています。つまり単発の物語として流布させ、人気がなければ、そこで打ち切りというスタイル。それが54帖にまでなったのですから、いかに人気があったか、ということですね」
と上智大学文学部教授の三田村雅子氏。平安の文学好きの女性たちが、皆で源氏物語を回し読みしながら、「貸して」と言っては書き写していた様が目に浮かぶようだ。そうして人気がじわじわと高まり、藤原道長の目に留まった。紫式部は彰子の女房となり、今度は愛読者層が宮中を中心に広がっていく。時の権力者がスポンサーに付いたのだから、紫式部もさぞ喜んだだろう……と思いきや、そうでもなかったらしい。「日記に『イヤだった』って書いてるんですよ。どうやら彼女の宮仕えには父親と弟の昇進が絡んでいて、仕方なく行ったようです。それでも最初は性に合わないと、何度も家に舞い戻っています。そのうち適応して、仲のいい友だちも出来たんですが、彼女の中には文学仲間を裏切ったという気持ちがあってね。仲間から権力に擦り寄った、みたいに言われて、縁を切られた、なんて話も日記につづられています」(三田村氏)
書物の中でしか知らず、反発を感じていた権力の世界に足を踏み入れた紫式部が、しだいにその華やかな魅力に引き付けられていったとしても不思議はない。「きれいな描写が増えて、作風が変化した」と三田村
氏は指摘する。
結婚生活は3年足らず。夫亡き後、紫式部は鬱々とした日々を送る。この頃だ、慰めに物語を書き始めたのは。互いに作品を見せ合い、文学を熱く語る仲間がいたという。「恐らく源氏物語が最初の作品ではなく、それまでに小さな物語をいくつか書いていたと思います。その中で源氏物語が人気になって、仲間の要望に応えて次々と書いたのでしょう。書物はふつう巻一、巻二といった数字を冠しますよね? でも源氏物語は、『桐壷の巻』とか『若紫の巻』とか、書名が付けられています。つまり単発の物語として流布させ、人気がなければ、そこで打ち切りというスタイル。それが54帖にまでなったのですから、いかに人気があったか、ということですね」
と上智大学文学部教授の三田村雅子氏。平安の文学好きの女性たちが、皆で源氏物語を回し読みしながら、「貸して」と言っては書き写していた様が目に浮かぶようだ。そうして人気がじわじわと高まり、藤原道長の目に留まった。紫式部は彰子の女房となり、今度は愛読者層が宮中を中心に広がっていく。時の権力者がスポンサーに付いたのだから、紫式部もさぞ喜んだだろう……と思いきや、そうでもなかったらしい。「日記に『イヤだった』って書いてるんですよ。どうやら彼女の宮仕えには父親と弟の昇進が絡んでいて、仕方なく行ったようです。それでも最初は性に合わないと、何度も家に舞い戻っています。そのうち適応して、仲のいい友だちも出来たんですが、彼女の中には文学仲間を裏切ったという気持ちがあってね。仲間から権力に擦り寄った、みたいに言われて、縁を切られた、なんて話も日記につづられています」(三田村氏)
書物の中でしか知らず、反発を感じていた権力の世界に足を踏み入れた紫式部が、しだいにその華やかな魅力に引き付けられていったとしても不思議はない。「きれいな描写が増えて、作風が変化した」と三田村
氏は指摘する。