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大沢池のほとりの石仏たち。少し離れた所にある名古曽(なこそ)の滝跡は、藤原公任が「滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ」(百人一首)と詠んだ名勝である。
男運に恵まれなかった?

 紫式部は当時としては晩婚だ。推測される生年から数えると、25歳くらい。しかし「才気走った女だからモテなかった」というわけでもなさそうだ。本人が「男だって教養を鼻に掛ける人はうだつが上がらない。まして私は女なのだから、『一』という漢学も知らないような顔をしてるわ」と言っているし、清少納言を「漢籍の教養をひけらかして得意顔だが、大したことはない」と酷評している。聡明な紫式部のこと、意識して控えめに振る舞っていたのではないだろうか。それに歌がうまいので、モテる女性の条件は満たしている。
 ではなぜ、晩婚だったのか。それは「家の事情」だ。父・為時が986(寛和2年)年に起こった寛和の変という政変に巻き込まれたのだ。花山天皇が退位・出家に追い込まれ、そのあおりを食った為時は式部省の職を失った。つまり失業者。父親の経済力という後ろ盾のない紫式部には、だからいい婿入り話がこなかったのだろう。
 ようやく結婚できた、その相手は父の同僚だった藤原宣孝だ。20歳も年上で既に正妻も子もいたとはいえ、美男子で経済力があり、“ファザコン"だという紫式部の結婚相手としてはいい。ただ宣孝は結婚3年後に亡くなってしまったのだ。同志社女子大学名誉教授の朧谷壽氏が「紫式部は男運が悪い」と言うのもうなずける。
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