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大沢池は晩年の光源氏の憂愁を映すよう。
紫式部はここから見る月の美しさに心酔した。
毎年中秋の名月に「観月の夕べ」が催される。
山の端の心も知らでゆく月は
うはの空にて影や絶えなむ
晩年の光源氏がそぞろ歩いただろう大覚寺の大沢池。名月での誉れ高いこの池のほとりに立つ。源氏物語の風雅漂う地である。ここから、紫式部の人物像に迫りつつ、彼女が描き出した「平安貴族のめくるめく愛と死の深しん淵えんを探る旅」を始めよう。

紫式部は何者か

「口惜しう、男子にて持たらぬこそ、さひはひなかりけれ」
 父・藤原為時は息子よりも、その傍らで自分の講義を聞いていた紫式部の方が学問に熱心で、覚えも早かったために、「この子が男の子だったらなあ」と嘆いたという。『紫式部日記』にあるこのくだりは、紫式部が学問を通して積み上げた豊かにして確かな教養を礎に、前代未聞の“恋愛大河小説"たる源氏物語を書いたことを如実に物語る。
 正確な生没年や本名すら伝わっていない紫式部だが、家系をさかのぼると、なかなかの名家である。父方の曽祖父は藤原兼輔。公卿であり、三十六歌仙に列せられる有名歌人である。一方、母方の曽祖父・藤原文範は文章道を学び、中納言にまで出世した人物だ。不運なことに、その名家も祖父の代以降、中産階級の受領に下り、家柄を保てなかった。しかし文化人の血は受け継がれた。祖父の雅正は歌人だし、父の為時『後
拾遺集』や『新古今集』に歌を採られる歌人であり、漢学に通じた人でもあった。
 紫式部という名は、中宮彰子に出仕して以降のもの。「式部」は父が現在の文科省に当たる式部省にいたことにちなむと言われる。「家柄は落ちぶれても、私は知識階級の家の出身なのよ」という一族の誇りを、その名に込めたのかもしれない。
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