幸隆はこの真田の郷を一度、村上氏に奪われている。それは、武将ひしめく信濃が隣国・甲斐に攻め入られて本格的な戦国の騒乱に巻き込まれていったころのこと。海野を本拠とする海野一族が1541(天文10)年、武田信虎、諏訪頼重、村上義清の連合軍に撃破されたのだ。世に言う「海野平の合戦」である。これにより海野氏の総領家は没落し、その一族であった真田幸隆は上杉氏を頼って上州へ逃げたという。
しかし、幸隆はほどなく、内紛により信虎を追放して息子・信玄の時代になった武田に出仕している。『甲陽軍艦』では、「他国を浪々している侍大将を家来に召し出せば調略に都合がよく、また本領復帰のために必死に働くだろう」という軍師・山本勘助の進言があって、信玄が昌幸を召し寄せたと伝えられる。事の真偽はともかく、幸隆は信濃攻略において、例えば「砥石崩れ」と称される信玄の数少ない敗戦で攻略できなかった砥石城を独力で乗っ取るなど、期待以上の働きをして武田の将としての地位を固めた。もちろん、真田本領の奪還にも成功したのである。
しかし、幸隆はほどなく、内紛により信虎を追放して息子・信玄の時代になった武田に出仕している。『甲陽軍艦』では、「他国を浪々している侍大将を家来に召し出せば調略に都合がよく、また本領復帰のために必死に働くだろう」という軍師・山本勘助の進言があって、信玄が昌幸を召し寄せたと伝えられる。事の真偽はともかく、幸隆は信濃攻略において、例えば「砥石崩れ」と称される信玄の数少ない敗戦で攻略できなかった砥石城を独力で乗っ取るなど、期待以上の働きをして武田の将としての地位を固めた。もちろん、真田本領の奪還にも成功したのである。


白鳥神社は日本武尊、貞元(さだもと)親王、善淵王(よしぶちおう)、海野広道公の四柱を御祭神として祭る。真田家は松代に移封となった際、白鳥大明神を松代へ分社し、後に海野神社と改称している。