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(上)かつて活躍した川坂屋の看板。年季の入った見事な文字は、この辺りの古き良き時代を物語っている。(下)茶室の床柱はつつじの巨木。これは珍しいもので、水戸偕楽園・何陋庵の床柱と二分されたものだと伝わる。
東西勢力のど真ん中で

 四足門をくぐり、右手に三日月堀・十露盤堀を眺め、さらに段差の大きな石段を上って掛川城天守閣へ。一段ごとにその姿が大きさを増しながら、眼前に迫ってくる。入り口手前に「霧噴き井戸」がある。1569(永禄12)年、徳川家康が攻め込んだ時に、ここから立ち込めた霧が城をすっぽり隠したと伝えられる。実際、家康は大軍で包囲しながらも、武力で城を落とすことはできず、やむなく講和で開城するに至ったのだった。掛川城は実戦によってその要害ぶりを実証したわけだ。名城と呼ばれるゆえんである。もっとも当時の掛川城はまだ平城。天守閣が建てられたのはその約30年後、全国を平定した豊臣秀吉によって家康が関東に移封され、同時に当時の城主だった家康の重臣・石川家成が退いて後に入城した山内一豊の時代である。
 司馬・ヱセ郎の『功名が辻』でよく知られる一豊は、妻千代の内助の功もあって、信長・秀吉・家康の3人の天下人に巧みに仕え、戦国の激烈な権力闘争を乗り切った武将だ。戦国時代、東西勢力の真ん中にある戦略地点・掛川城では、45歳からの10年間を城主として幾多の治績を上げる活躍を見せた。そして関ヶ原の戦いが起こるや、家康に加担して、ついには掛川5万石から土佐20万石の大名へと栄転を果たしたのである。
(上)日坂宿で一番南にあった旅籠屋・川坂屋。床の間付きの上段の間があること、当時禁制であったひのき材が用いられていることから、身分の高い武士や公家なども宿泊したことが伺われる。(下)川坂屋に残るふすまの書は、山岡鉄舟のもの。他にも、西郷隆盛の実弟である従道が書いたものや、十返舎一九が酔っぱらって書いた句など“お宝”が眠る。
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