次々に遭遇した山と谷
12年4月。アジア・アマを連覇して再び挑んだ2度目のマスターズは悔し涙に終わった。上位フィニッシュが望めた最終日、彼は1番で短いパーパットを外し、「あれっ?」と感じた小さな違和感が、その後の彼のゴルフを狂わせた。80をたたく大崩れで54位タイに沈んだ松山は、「自分が不甲斐ない」と大粒の涙をボロボロこぼして泣いた。
13年にプロ転向。米ツアーのメンバー資格獲得を目指して挑み始めた松山に、周囲の選手たちはこぞって厳しい視線を向けた。プレーペースやルール上の対処の仕方、マナーやエチケットにいたるまで、松山は次々に批判にさらされた。だが、14年メモリアル・トーナメントで初優勝を挙げると、外野の喧騒はあっさり収まった。しかし、15年は勝てない1年を経験。「シード落ちしたら下部ツアーに行ってでもやります」と覚悟を決め、アイアンで構築するゴルフを目指して黙々と鍛錬する日々を過ごした。
16年フェニックス・オープンでは、アメリカの国民的人気を誇るリッキー・ファウラーとのプレーオフにもつれ込み、大観衆すべてを敵に回す完全アウェーの中、松山は「逆にここで勝ってやる」という気概を抱き、米ツアー2勝目を挙げた。批判の目も、四面楚歌も、すべて跳ね返し、極限状態の中で挙げた2度の勝利は、松山の心臓を格段に強化したのだと思う。16年は日本でも2勝を挙げ、上海では世界選手権のHSBCチャンピオンズ、バハマでは「タイガー・ウッズの大会」であるヒーロー・ワールド・チャレンジでも勝利した。
17年にはフェニックス・オープン2連覇を成し遂げ、その夏、ブリヂストン招待を制して二つ目の世界選手権タイトルを掌中に収めた。その勢いのまま臨んだ翌週の全米プロではメジャー初優勝ににじり寄った。だが、折り返し後の11番でフェアウェーから打ってグリーンを外した第2打がすべてを狂わせた。
「難しくない状況からミスしたことが、きつかった。バーディーチャンスからボギーにしたことが、すごく不甲斐ない……」
1打の小さなミスから崩れ落ち、優勝をジャスティン・トーマスに差し出した松山は、大勢の日本メディアの視線にさらされていると知りながら、思わずしゃがみ込み、背中を震わせながら悔し泣きした。しかし、もしかしたら、あの悔し涙も、今年のマスターズ4日間をしっかり乗り越えるための試練だったのではないかと、今はそう思える。
13年にプロ転向。米ツアーのメンバー資格獲得を目指して挑み始めた松山に、周囲の選手たちはこぞって厳しい視線を向けた。プレーペースやルール上の対処の仕方、マナーやエチケットにいたるまで、松山は次々に批判にさらされた。だが、14年メモリアル・トーナメントで初優勝を挙げると、外野の喧騒はあっさり収まった。しかし、15年は勝てない1年を経験。「シード落ちしたら下部ツアーに行ってでもやります」と覚悟を決め、アイアンで構築するゴルフを目指して黙々と鍛錬する日々を過ごした。
16年フェニックス・オープンでは、アメリカの国民的人気を誇るリッキー・ファウラーとのプレーオフにもつれ込み、大観衆すべてを敵に回す完全アウェーの中、松山は「逆にここで勝ってやる」という気概を抱き、米ツアー2勝目を挙げた。批判の目も、四面楚歌も、すべて跳ね返し、極限状態の中で挙げた2度の勝利は、松山の心臓を格段に強化したのだと思う。16年は日本でも2勝を挙げ、上海では世界選手権のHSBCチャンピオンズ、バハマでは「タイガー・ウッズの大会」であるヒーロー・ワールド・チャレンジでも勝利した。
17年にはフェニックス・オープン2連覇を成し遂げ、その夏、ブリヂストン招待を制して二つ目の世界選手権タイトルを掌中に収めた。その勢いのまま臨んだ翌週の全米プロではメジャー初優勝ににじり寄った。だが、折り返し後の11番でフェアウェーから打ってグリーンを外した第2打がすべてを狂わせた。
「難しくない状況からミスしたことが、きつかった。バーディーチャンスからボギーにしたことが、すごく不甲斐ない……」
1打の小さなミスから崩れ落ち、優勝をジャスティン・トーマスに差し出した松山は、大勢の日本メディアの視線にさらされていると知りながら、思わずしゃがみ込み、背中を震わせながら悔し泣きした。しかし、もしかしたら、あの悔し涙も、今年のマスターズ4日間をしっかり乗り越えるための試練だったのではないかと、今はそう思える。